イエスの死後3日目、キリストに希望を置いていた2人の弟子が、落胆の中エマオへ。歴史上最高の旧約聖書の解き明かしをしたという、この2人が出会った人物とは?
4つの福音書をまとめて、イエス・キリストの「完全なる生涯」として一つのストーリーに。今回も、エマオや、旧約聖書全体のフォーカスである、キリストに関して予言していた箇所など、スタディバイブルからの簡単な解説も含めてお届け致します。
前回「番兵が祭司長達に報告する」からの続きです。
ルカによる福音書(Lk) 24章11-25節とマルコによる福音書16章12-13節から
Lk ちょうどこの日、ふたりの弟子が、エルサレムから十一キロメートル余り離れたエマオ(*1)という村に行く途中であった。そして、ふたりでこのいっさいの出来事について話し合っていた。話し合ったり、論じ合ったりしているうちに、イエスご自身が近づいて、彼らとともに道を歩いておられた。しかしふたりの目はさえぎられていて(*2)、イエスだとはわからなかった。
イエスは彼らに言われた。「歩きながらふたりで話し合っているその話は、何のことですか。」すると、ふたりは暗い顔つきになって、立ち止まった。クレオパというほうが答えて言った。「エルサレムにいながら、近ごろそこで起こった事を、あなただけが知らなかったのですか。」
イエスが、「どんな事ですか。」と聞かれると、ふたりは答えた。「ナザレ人イエスのことです。この方は、神とすべての民の前で、行ないにもことばにも力のある預言者でした。それなのに、私たちの祭司長や指導者たちは、この方を引き渡して、死刑に定め、十字架につけたのです。しかし私たちは、この方こそイスラエルを贖ってくださるはずだ、と望みをかけていました(*3)。事実、そればかりでなく、その事があってから三日目になりますが、また仲間の女たちが私たちを驚かせました。その女たちは朝早く墓に行ってみましたが、イエスのからだが見当たらないので、戻って来ました。そして御使いたちの幻を見たが、御使いたちがイエスは生きておられると告げた、と言うのです。それで、仲間の何人かが墓に行ってみたのですが、はたして女たちの言ったとおりで、イエスさまは見当たらなかった、というのです。」
するとイエスは言われた。「ああ、愚かな人たち。預言者たちの言ったすべてを信じない、心の鈍い人たち。キリストは、必ず、そのような苦しみを受けて(*4)、それから、彼の栄光にはいるはずではなかったのですか。」それから、イエスは、モーセおよびすべての預言者から(*5)始めて、聖書全体の中で(*6)、ご自分について書いてある事がらを彼らに説き明かされた。
彼らは目的の村に近づいたが、イエスはまだ先へ行きそうなご様子であった。それで、彼らが、「いっしょにお泊まりください。そろそろ夕刻になりますし、日もおおかた傾きましたから。」と言って無理に願ったので、イエスは彼らといっしょに泊まるために中にはいられた。彼らとともに食卓に着かれると、イエスはパンを取って祝福し、裂いて彼らに渡された。それで、彼らの目が開かれ(*7)、イエスだとわかった。するとイエスは、彼らには見えなくなった。
そこでふたりは話し合った。「道々お話しになっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか。」すぐさまふたりは立って、エルサレムに戻ってみると、十一使徒とその仲間が集まって、「ほんとうに主はよみがえって、シモンにお姿を現わされた。」と言っていた。
彼らも、道であったいろいろなことや、パンを裂かれたときにイエスだとわかった次第を話した。
[mk (*8)その後、彼らのうちのふたりがいなかのほうへ歩いていたおりに、イエスは別の姿でご自分を現わされた。そこでこのふたりも、残りの人たちのところへ行ってこれを知らせたが、彼らはふたりの話も信じなかった。]
*注
- 聖書の中で、この箇所で一度だけ出てくる場所で、正確な場所は不明です。伝統によれば、エルサレムの北西約11kmにあるKubeibehと言う町だそうです。
- 2人はその人物がイエスである事を、神の働きにより認識できなくされていました。
- 群衆は旧約聖書で約束されていたユダヤ人の王が治める地上の王国を求めていました。イエスが十字架の上で死なれたために、この2人もイエスが国を支配する油注がれた者メシアであった事を疑い、信じることに難しさを覚えていたことでしょう。その一方で、イエスが真の預言者であるとは認めていたようです。
- 旧約聖書では、主のしもべの受難について語っていました。(イザヤ52章13節からなど)
- 24章22節では、「モーセの律法と預言者と詩篇」と聖書全体を3部構成として捉えています。この「モーセおよびすべての預言者」は、同じ事を短く表現しています。
- 神の計り知れない知恵と摂理によって、イエスのされた旧約聖書からのメシアに関する預言の公開説教は記録されていません。しかし、その説教の要点には、疑いなく、キリストの受難と死についての型と象徴であった、旧約聖書におけるいけにえの制度を含んでいたことでしょう。また、十字架の死に関する主な預言書のみことばなども詩篇16:9-11; 22; 69、イザヤ 52:14-53:12、ゼカリヤ 12:10; 13:7などから説明したり、創世記 3:15、民数記 21:6-9、詩篇 16:10、エレミヤ 23:5-6、ダニエル 9:26などの本当の意味など、そして、その他のメシアに関する主要な預言、特にイエスの死と復活についても指摘した事でしょう。
- この時点まで、神の主権的な働きによって、2人はイエスであることを認識することができませんでした。イエスの復活後の体は栄光の体へとかわり、黙示録1章13節から16節にもあるように、以前の状態とは違っていました。その点からも、マリヤは初め復活のイエスを見た時、それが誰だか分からなかったのかもしれません。しかし、この場合、主が離れる時まで彼らには分からないようにと、神が直接干渉されたのです。
- 内外的な証拠によると、マルコ16章9節から20節は、(マルコ自身が書き留めた)マルコの福音書の原本の一部ではなかったことを強く示唆しています。詳しくはこちらで説明しています。
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次回は、「トマス不在の2階の部屋で」です。
参考資料
- John MacArthur. The Road to Emmaus, One Perfect Life. P478
- 新改訳聖書 (1965年版)
カナダのビクトリアにある、ビクトリア日系人教会で初めて聖書を。その後、聖書の教えるイエス・キリストの福音を知り、現在はビクトリアのダウンタウン近くにあるBeacon Churchへ導かれました。私たちは、4人の子宝に恵まれた日本人のクリスチャン家族です。ビクトリアに住む日本人/日系人の為の教会案内にも目を通して下さいね。