福音, 聖書, 伝道

イエス・キリストを知る:神の麗しさを仰ぎ見て神を喜ぶ

前回の聖書の学び方のシリーズで、神のことばを聞くことについて見ました。今回は、信仰の目を持って神を見ることについて触れて行きたいと思います。聖書の学びの最終的な目的は、イエス・キリストを知って、神を礼拝し、神御自身を喜ぶことです。そのプロセスの中で、キリストにある者としての霊的成長を期待することが出来るのです。

今、多くのクリスチャンのフォーカスは、「私たちの幸せ、生きる目的、人生のやり直し、健康、なぐさめ」など、神から与えられる恵みや祝福に置かれています。伝道をする時も、福音のテーマであられるイエス・キリストから目を離して、「人の幸せや天国」などにフォーカスを置いた福音を伝えてしまうことがありませんか。また、福音を正しく伝えても、そこで終わってしまうことがありませんか。福音の最終的な目的は「罪の許し」や「天国でいつまでも幸せに暮らす」ではありませんよね。例えば、妻と喧嘩をしてしまい、謝らなけばいけなかったことはありませんか。もし、謝って和解する理由が、「妻に夕食を作ってもらいたいし、ソファーで寝たくないから」であったとすれば何か間違えていますよね。正しい理由は、妻との親しい関係の為です。同じように、福音の目的は、神と和解して、神との親しい交わりを持つことです。神が与えて下さる恵み、例えば、苦しみから抜け出すことや天国に行くだけの為ではなく、神御自身を交わりの中で喜ぶということです。この世で、人がどれだけ心の欲する物を手に入れても、一時は満足しますが、それは続きませんよね。天国でも、同じです。神は人を有限の物で満足するようには造られなかったからです。伝道者の書の3章11節に「神はまた、人の心に永遠への思いを与えられた。」とある通りです。死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない天国に、何よりも、罪がなく、平安、喜び、愛で満たされた場所に行って、人が望む全てのことが満たされた所で、永遠の時を過ごすことを考えたことはありますか。黙示録の21章では、天国にある大通りは透き通ったガラスのような純金で出来ているとなど、色々と描写もされています。天の御国に入った時、たとえ全ての良い物を与えられたとしても、それで満足でしょうか。長い時間をかけて、天国にある言葉に尽くすことの出来ない物を楽しんでしまえば、必ず飽きが来てしまうでしょう。

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それでは、何が答えなのでしょうか。それは、イエス・キリスト御自身です。御子の手によって全ての物が御子の栄光の為に造られました。今まで地上で生きてきた全ての人を秤の一方に置いてキリストと比べても、イエス・キリストにははるかに価値があります。この限りなく広い宇宙にある全ての物を一つに集めて比べても、御子の栄光には及びません。いくつもの美しい陶器よりも、それらを作った陶器師に価値があるのと同じです。美しくピンクと紅に染まった夕焼けを見たり、真っ青に晴れた日に海を見た時どのように感じるでしょうか。感動を覚えますよね。神はそれ以上に美しい方です。神のことに心を馳せる時、それ以上の感動を覚えるでしょうか。御子は父のふところにおられる方(ヨハネ1:18)であり、私たちが全ての物を捨てて従う価値のある「畑に隠された宝」であり「すばらしい値打ちの真珠」(マタイ13:44ー46)である方です。その全てにまさってすばらしい方が私たちの主であられ、私たちの至高の宝なのです。救いの恵みに預かった私たちは、神のいる人生に満足を覚えるのではなく、神御自身に満足を見出すのです。詩篇にあるように、主をおのれの喜びとし、神にあって喜ぶのです。主御自身が私たちの「受ける分」であり、全てなのです。

無限の神を有限の人が永遠の時を持ってしても理解は出来ません。聖書を通してそのキリストの新たな側面を知る時、言葉に言い尽くすことの出来ない喜びを味うことがありますよね。その神の素晴らしさをいつも新しく発見し、いつまでも味うことが出来る所が天の御国です。だからこそ、天の御国で人は飽きることがないのです。そこでその方と顔と顔を合わせて、その麗しさを仰ぎ見るのです。詩篇27:4にこうあります。「私は一つのことを主に願った。私はそれを求めている。私のいのちの日の限り、主の家に住むことを。主の麗しさを仰ぎ見、その宮で、思いにふける、そのために。」そして、キリストにある者は今、この場で、その喜びを味うことが出来るのです。これ以上の喜びはありませんよね。ウェストミンスター小教理問答の問1で「人の主な目的は何ですか。人の主な目的は神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことです。」とあります。神の栄光を現すということは何となく理解出来る方は多く居ますが、その後の「永遠に神を喜ぶ」ということは以前僕自身考えていませんでした。詩篇63:3では、「あなたの恵みは、いのちにもまさるゆえ、私のくちびるは、あなたを賛美します。」とあります。主が私たちの神となるというこの神の恵みは、私たちの「いのち」そのものにもまさるとあります。ピリピ書1章でパウロがキリストのすばらしさが現わされることを望むので、生きることはキリスト、死ぬこともまた益であり、一番良いのは世を去ってキリストとともにいることですと言いました。また、3章の8節から「それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。」と言ったその理由がわかりますよね。キリスト以外の物に、まして、世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などに価値を見出すことができるでしょうか。神御自身に満足をすることが出来ないなら、私たちは、聖書で御自身を現されたキリストに出会ってないからではないでしょうか。そして、その後にこのように福音を語っています。「それは、私には、キリストを得、また、キリストの中にある者と認められ、律法による自分の義ではなくて、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基づいて、神から与えられる義を持つことができる、という望みがあるからです。」まさしく、聖書の教える福音の信仰義認です。ヨハネ3章16節で、「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」とあります。そのような御子イエス・キリストを私たち罪人の為に与えて下さるその神の愛は何と素晴らしいのでしょうか。この方が、私たちの罪で汚れた衣を御自身で着て下さり、十字架の上で私たちの代わりに神にのろわれた者となり死んで下さったこと、そしてキリストの光輝く義の衣で私たちの裸を覆って下さったのです。神の前で、私たちをあたかもキリスト御自身であるかのように見て下さる、これが聖書の語る福音の信仰義認ですよね。福音を述べ伝える時に、至高の宝であられるイエス・キリストをあかしして、その方御自身が私たちに与えれることを伝えては如何でしょうか。

御霊なる神の働きの中、みことばを通して、心の一新によって自分を変えるようにローマ12:2で命じています。その中で、信仰の目を持ってキリストを見て、この方に心を向け、主の素晴らしさを味わうのです。2コリント3章の終わりで、人が主に向くなら、鏡のようにキリストの栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていくとあります。主の麗しさを仰ぎ見て、主を喜び、その結果として、私たちは内側からきよめられていくのです。

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栄光在主


John Piper師とPaul Washer師のミニストリーを参考


名作絵本:汚れた服を着た祭司
あのR.C. Sproul師の子供向けの絵本をご賞味ください。

完全なる生涯」と題して、イエス・キリストの、人としての地上での歩みを、1つの福音書としてまとめるシリーズを始めました。また、「みことばの糧」と題して、聖句の簡単な説明と共に、みことばの糧をビクトリアからお届けします。「みことばの意味がみことばである」をモットーに、聖書は神の誤りなきことばという見解に立つMacArthurスタディバイブルやESVスタディバイブルやReformationスタディバイブルなどの注釈を日本語訳にしています。日本語と英語で、Logos bible appsのイラストと一緒に味わって下さいね。

“イエス・キリストを知る:神の麗しさを仰ぎ見て神を喜ぶ” への 2 件のフィードバック

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