今回は、2人の弟子たちにイエスの身体が墓から動かされている事を告げた後、悲しみと絶望の中、泣くマリヤ。そのマリヤに現れたのは?
4つの福音書をまとめて、イエス・キリストの「完全なる生涯」として一つのストーリーに。今回は、「聖書のみことばでない聖書の箇所」について、その理由をスタディバイブルからの簡単な解説も含めてお届け致します。
前回「ペテロとヨハネが空の墓を見る」からの続きです。
ヨハネによる福音書(jn) 20章11-18節とマルコによる福音書(mk) 16章9-11節から
jn しかし、マリヤは外で墓のところにたたずんで泣いていた。そして、泣きながら、からだをかがめて墓の中をのぞき込んだ。すると、ふたりの御使いが、イエスのからだが置かれていた場所に、ひとりは頭のところに、ひとりは足のところに、白い衣をまとってすわっているのが見えた。彼らは彼女に言った。「なぜ泣いているのですか。」彼女は言った。「だれかが私の主を取って行きました。どこに置いたのか、私にはわからないのです。」彼女はこう言ってから、うしろを振り向いた。すると、イエスが立っておられるのを見た。しかし、彼女にはイエスであることがわからなかった。イエスは彼女に言われた。「なぜ泣いているのですか。だれを捜しているのですか。」彼女は、それを園の管理人だと思って言った。「あなたが、あの方を運んだのでしたら、どこに置いたのか言ってください。そうすれば私が引き取ります。」イエスは彼女に言われた。「マリヤ。(*1)」彼女は振り向いて、ヘブル語で、「ラボニ(すなわち、先生)。」とイエスに言った。イエスは彼女に言われた。「わたしにすがりついていてはいけません。わたしはまだ父のもとに上っていないからです。わたしの兄弟たち(*2)のところに行って、彼らに『わたしは、わたしの父またあなたがたの父、わたしの神またあなたがたの神のもとに上る。』と告げなさい。」マグダラのマリヤは、行って、「私は主にお目にかかりました。」と言い、また、主が彼女にこれらのことを話されたと弟子たちに告げた。
mk (*3)[さて、週の初めの日の朝早くによみがえったイエスは、まずマグダラのマリヤにご自分を現わされた。イエスは、以前に、この女から七つの悪霊を追い出されたのであった。マリヤはイエスといっしょにいた人たちが嘆き悲しんで泣いているところに行き、そのことを知らせた。ところが、彼らは、イエスが生きておられ、お姿をよく見た、と聞いても、それを信じようとはしなかった。]
*1:「マリヤ」:マリヤがイエスを認識する事が出来なかった理由が何であれ、主が「マリヤ」と一言呼ぶと同時に、その声がイエスだと気が付きました。これは、イエスがヨハネ10章27節(や10章3-4節参照)で「わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。またわたしは彼らを知っています。そして彼らはわたしについて来ます。」を彷彿させます。
*2:わたしの兄弟たち:弟子達は、ヨハネ15章15節などでも分かるように「しもべ」や「友」と呼ばれましたが、この時まで「兄弟たち」とは呼ばれていませんでした。主が成し遂げられた十字架上での罪人の身代わりとしての御業の故に、このような新しいキリストとの関係を可能としたのです(ローマ 8:14-17; ガラテヤ 3:26-27; エペソ1:5; ヘブル 2:10-13)。
*3:外的な証拠によると、マルコ16章9節から20節は、(マルコ自身が書き留めた)マルコの福音書の原本の一部ではなかったことを強く示唆しています。何故なら、大多数のギリシア語の写本がこの箇所を含んでいますが、最も古く信頼性のある写本には含まれていません。これよりも短い完結文もありますが、ここでは含まれていません。そして、写本筆写者が、この箇所を含む写本には、古いギリシア語の写本には含まれていなかったことをメモとして書き残したり、この箇所の信頼性に疑いがある事を記しています。4世紀の教父である、エウセビウスは殆どのギリシア語の写本には9節から20節が欠けていることを記しています。
また、この聖書箇所からも、マルコが筆者である事に反する重大な証拠をあげています。まず、8節から9節からの移り変わりが、あまりにもぶっきらぼうでぎこちないのです。9節の初めに「さて」と訳されている小詞は、その前の話しの続きの流れがある事を暗示しています。しかしながら、8節で登場した女達の話が続くのではなく、マグダラのマリヤにイエスが現れる所を描写しています(ヨハネ20:11ー18参照)。また、マルコ16章9節での男性分詞は先行詞として「彼」を予期していますが、8節の主語は女達です。しかも、マグダラのマリヤについては既に3度も触れられたにも関わらず(15:40; 47; 16:1)、この9節で初めて登場したかのように紹介されています。もし、マルコが9節を書いたとしたなら、イエスが7つの悪霊をマリヤから追い出したことを、今になってここだけで触れているのは不思議です。また、御使いは、主が弟子達にガリラヤで現れる事を話しましたが、9節から20節までで主が現れたのは全てエルサレム付近ででした。最後に、この9節から20節までで、他のマルコの福音書の中でマルコが使っていないギリシア語の単語が多く使われていることから、この最後の箇所はマルコが書いていないとう事を主張しているのです。
2世紀の教父であるエイレナイオス、タティアノス、ユスティノスなどに知られていましたが、この9節から20節まではマルコの福音書を完成させる早い時期での試みを表しています。この最後の箇所は、他の聖書箇所で教えられている真理をだいたいは要約はしていますが、どのような教義もこの箇所のよってのみ公式化すべきではありません。信頼性に欠けるこの部分のこれらの審議にも関わらず、この件において誤っている可能性もあります。ですから、この箇所の意味を考え、ヨハネ7章53節から8章11節のように、そのまま残して置くのが良いでしょう。
(投稿者)本来みことばでない聖書箇所が聖書の中に入っていると、それが聖書の信憑性を疑うきっかけとなるでしょうか。そうではなく、むしろ、どの箇所が原典に含まれて、どの箇所が後の写本筆写の時点で付け加えられたのかが判るということは、それだけ今、私達が手にしている聖書は、神の霊感によって書き記された原典に忠実である、ということが分かるのです。
次回は、「イエスが他の女たちに現れる」です。もし、少しでも祝福となりましたなら、是非ともお友達とシェアして下さいね。
参考資料
- John MacArthur. Jesus Appears to Mary Magdalene, One Perfect Life. P474
- 新改訳聖書 (1965年版)
ビクトリアから聖書の核となるメッセージ、イエス・キリストの福音お届けします!
「完全なる生涯」と題して、イエス・キリストの、人としての地上での歩みを、1つの福音書としてまとめるシリーズを始めました。また、「みことばの糧」と題して「みことばの意味がみことばである」をモットーに、聖書のみことばの説明とLogos Bible Appのイラストと共にお届けします。聖書箇所の説明は、The MacArthur Study BibleやThe Reformation Study Bibleをもとに、簡単な日本語訳をセットにしています。