これは以前、ビクトリアに住まれる日系人やビクトリアの教会を訪れる方への伝道の為に、以下のような十字架の形をしたトラクトを作った時に書いたものです。キリスト教に初めての方、またクリスチャンとは言ったものの、福音がよく分からないと言われる方の為に作ったものです。
もし、良ければ、ここからダウンロードして下さい。リーガルサイズ(8.5x14in)の紙に両面印刷で、十字架の形に出来上がります。
こちらから音声で聴けます。
1 下の絵にAとBのマスがあります。どちらが薄く見えるでしょうか。

一見するとBの方が薄く見えますが、実は両方とも同じ濃さです。この様に、私達の目は時としてだまされてしまう事があります。本当だと思い込んでいても、実は後で誤りであったと気が付いた事もあるでしょう。しかし中には、誤りであれば、取り返しのつかない事になってしまうものがあります。
それは、人はこの世での旅路を終えた時、どこに向かうのかという事についてです。満天の星空を見上げた時、私達は畏敬の念に駆られます。生まれながらにして、この世界を何もない無から創られた、知恵と力に満ちた創造主なる神がおられる事を私達は知っているからです。また、人殺しや盗みは悪いというような、すべての人に当てはまる善悪の基準がある事を良心によって知っています。その事から、人を裁かれる正しい裁き主である神がおられるという事を私たちは無意識のうちに知っています(ローマ1ー2章)。
2 この世での旅路を終えた時、私達のたましいはどこに行くのでしょうか。聖書にははっきりと、天国と地獄の存在が書かれています。私達は、この創造主なる神がおられる天国に入れてもらう事ができるのでしょうか?人の基準でなく、神の基準である十戒を用いた、簡単なテストをしてみましょう。今までに、嘘をついた事がありますか。また、価値に関わらず他の人の物を盗った事、両親を敬わなかった事、人の物を妬んだ事、異性を情欲を抱いて見た事(心の中ですでに姦淫を犯したとイエス様は言われました)、人をののしった事、憎んだ事(心の中で人を殺した事)、自分に都合の良い神を心の中で作った事はあるでしょうか?これらの一つでも破れば、十戒の全てを破った事と同じであると聖書は教えています。(ヤコブ2:10)
3 神は、私達の行いだけでなく、言葉と心の考えをもはかり裁かれる完全にきよく正しい方です。今まで私達が心で思い考えていたネガティブな事を全て記録したビデオを家族や友達の前で上映されたらどう感じるでしょうか。「私はそれでも正しく、恥ずかしい事は全く有りません」と言えるでしょうか。逆に、一番の親友にも観せる事が出来ないのではないでしょうか。事実、私達は数え切れない程の悪を行っているのです。神はどの様な小さな事でさえも、その一つ一つを全て書物に記録されているのです。「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定」められています(へブル9:27)。その裁きの時、私たちは果たして無罪でしょうか?それとも有罪でしょうか?
4 全ての宗教はこの結末から逃れるための人の試みであると言ってよいでしょう。それは、悪を行った人がどのように神の前に義(正しい)と認められ天国に入れてもらう事が出来るかという人の行いです。しかし、人は行いによっては誰も義と認めらません。この世の裁判において、法律に違反した被告が他にどれだけお金を払っても、良い事をしていたとしても、その行った犯罪のために裁かれ刑務所に入れられるのは当然です。同じように、他にどれだけ良い行いをしたとしても、すでに罪(神の律法/戒めに逆らう事)を犯した私達の受けるべきものは神の当然の怒りです。私達の犯した罪はただ人に対して行ったのではなく、その人を創られいのちを与えて下さった神に対して行ったのです。人の受ける罰の大きさは、同じ罪であっても違反した相手の地位と権威によって変わります。
5 ですから世界を創造した無限、永遠、不変の神に対して罪を犯した私達の受けるべき罰はどれほど大きいのでしょうか。黙示録21:8には「不信仰の者、憎むべき者、人を殺す者、不品行の者、魔術を行う者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者どもの受ける分は、火と硫黄との燃える池の中にある」とあります。それは永遠の滅びの刑罰、すなわち、消えることのない火と、身体を食ううじの尽きることのない地獄(マルコ9:48)で、神の怒りをいつまでも受ける事だとあります。「神は愛だから許して下さる」と言われるでしょう。しかし、「悪者を正しいと認め、正しい者を悪いとする、この二つを、主は忌みきらう。」(箴言17:15)とある様に、きよく正しい神は、罪をただ赦し見過ごして、御自身を否む事は出来ません。必ず罪を裁かれます。私達はこの神の怒りを恐れながら待つより他はないのでしょうか。この答えが、イエス・キリストの福音です。
神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。(2コリント5:21)
6 聖書ではこのように神に対して罪を犯した私たちを、一方的な御好意によって救ってくださる天地の創造主なる神の愛について教えてくれています。それは、あわれみと恵みに満ちた神が、そのひとり子イエス・キリストをこの世に遣わされたという事です。神御自身である方が、へりくだって処女マリヤを通して一人の人として生まれたのです。「御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れ(ヘブル1:3)」である方です。このイエスは、罪を全く犯されず、私達が守ることの出来なかった神の戒めを完全に守り通し、私たちの受けるべき罪の報酬である神の怒りを、十字架の上で私たちの身代わりとなって受けて死んでくださったのです。「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」(1ヨハネ4:10)
7 正しい人の為でなく、何の働きもない私達が、まだ罪人であり、神の敵であった時に、キリストは私達の為に死んで下さり、神は私達に対する御自身の愛を明らかにして下さったのです。私達の様な悪者の死でさえ決して喜ばれない神は、今私達をその救いに招いてくださっています。誰でも、罪を悔い改め(この様な神に対して行った罪を悲しみ、罪を憎んで捨て去る事)、キリストのみを唯一の救い主と信じるなら、罪が許され神の前に義と認められると約束されています。イザヤ書で「あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪の様に白くなる」とある様に、神が許す事の出来ない罪は有りません。その罪が、嘘をついた、人を妬み憎んだ、ポルノなど心の中での姦淫を犯した、殺人、中絶など、その他、人に言えないどの様な罪であっても、神はキリストにあって過去、現在、未来の全ての罪を許す事ができるのです。
8「罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」(ローマ6:23)地獄の滅びでなく、永遠の命と天国が約束されているのです。私達は、「恵みのゆえに、信仰によって救われるのです。それは、自分自身からでたことでなく、神からの賜物です。行いによるのではありません」(エペソ2:8-9)。そして、キリストは死に打ち勝たれ三日目によみがえり、天に昇られました。誰でも、キリストを信じる者は、全く新しい者とされ、神の子どもとされ(1ヨハネ3:1)、今までとは違う新しい人生が始まります。救われた者の証拠は、完全ではなくても、何よりも主イエスを愛し、神のみことばを正しく読んで、聞き従うとあります(ヨハネ8章)。そして、天の御国に入り、いつの日かよみがえることが約束されています。
9 キリストだけが私達の罪責に対する答えなのです。他のどの宗教にもこの罪責に対する答えは有りません。キリストは、「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません」(ヨハネ14:6)と言われました。この福音がイリュージョン(空想話)でなく真理であれば、これを信じる信じないに関わらず私達の運命を決めてしまいます。「御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる」(ヨハネ3:36)とあります。私達のたましい以上に大切な物があるでしょうか。「人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。」(マタイ16:26)どうか、心を硬くなにする事無く、この福音(よい知らせ)の恵みに心を開かれますようお祈りしています。
10 最後に、クリスチャンであると言われる方にお尋ねします。この世の旅路を終えた時、神に「何故あなたを天国に入れなければいけないのか」と仮に質問をされたとすれば、どの様に答えますか。「イエス様を信じているからです」と答えて、それ以外に何も言えないのであれば、イエスを信じる自分の信仰を信じているだけかも知れません。どの様な劇的な体験をしたとしても、イエス・キリストの福音を理解する事なしには救われる事はありません。多くの人が終わりの日に「主よ。主よ。」とキリストに言うが、「わたしはあなた方を全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け」と言われ、滅びてしまうとマタイの福音書7章で警告があります。私達が神の国に入る事が出来るのは、イエスが、イエスを信じる私達の罪を背負い、十字架の上で神の怒りを身代わりとなって受けて死んで下さり、キリストの正しさで私達を覆って下さったからです。
11 これがイエス・キリストの福音です。私達の信仰はこの救いの恵み、神の賜物を受け取る手にすぎません。しかも、その信仰と悔い改めの心さえも、神からの賜物なのです。今も生きておられるこのイエス・キリストだけを信じているでしょうか。ビクトリア在住の方には無料で新約聖書を差し上げますので、興味のある方は是非、GospelForJapan@gmail.com までご連絡下さい。また、どの様な質問、疑問など有ればご遠慮なくご連絡下さい。聖書の核となるテーマはイエス・キリストとその福音です。いつまでも変わらない神のみことばである聖書に忠実でなく、そのメッセージから外れているエホバの証人(ものみの塔)、モルモン教、統一教会、ローマカトリック、一部のカリスマ派、リベラル派のプロテスタント教会とは一切関係がありません。
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