聖書

キリストを知る:聖書の読み方編ステップ2解釈パート3:越えるべき溝2

聖書はそもそも今から約二千年前に千五百年かけてユダヤの人たちに書かれた書物です。ですので、21世紀の日本人の視点で読めば誤った聖書の結論に到達してしまいます。私たちの先入観を持って聖書を読めば当然誤りの結論に至り、神が意図した聖書の意味を知ることはできません。「洗礼式の様式」といった二時的な教えならともかく、解釈の仕方次第では、「福音の核」となることにさえ影響を及ぼしてしまいかねません。その為に、聖書を読む時に「避けるべき間違い」と「越えなければいけない溝」について見てきました。前回も、福音そのものを変えてしまうという例を踏まえながら「言語」と「文化的背景」の2つの溝を見ました。今回は、「地理的背景」と「歴史的背景」の溝について見ていきたいと思います。

3. 地理的背景

聖書に記録されていることは実在の場所での出来事です。聖書の地理を理解することによって、みことばが実際の歴史であったことが如実となります。また聖書の付録の地図で、聖地の土地を知ることによって、内容を深く理解するのを助けてくれます。今イスラエルに行けば、まさに主が歩まれた足跡を辿ることもできます。約1900年も昔に書きあげられたこのような書物で、今も手元に残されているものが他にどれだけあるでしょうか。

例えば、ヨハネの福音書18章1節で「イエスは、、、ケデロンの川筋の向こう側に出ていかれた」とあります。この過ぎ越しの祭りの時期、ほふられたいけにえの羊が約25万頭いたと記録から推測されています。これだけ沢山の羊から注ぎ出された血は、神殿の丘とゲッセマネの園の間を流れるこの小川に流れ込んだことでしょう。その川を渡る時の主の衣のすそは、その血で真っ赤に染まり、「世の罪を取り除く神の子羊」としてこの世に遣わされた方であると、弟子たちも後に思い起こしたことでしょう。あるいは、イザヤ書63章にある、イスラエルに約束された贖い主、イスラエルのために報復され酒ぶねを踏む者のように、血のしたたりが衣にふりかかった真紅の衣を着て来られる方、愛とあわれみによってイスラエルを贖う方のことを思い出したのかも知れません。

4. 歴史的背景

他の宗教書とは違い、聖書は、歴史上の人物や実際の出来事などを記した、誤りなき真実の歴史書でもあります。ちなみに私たちの歴史の教科書に書かれている内容よりも信憑性がある事が、以前の投稿の注で少し触れた本文批評などの科学的視点からも証明されています。その歴史的背景を理解する事によって、その当時の人々が当たり前のように知っていた視点で聖書を理解できるのです。その為にも聖書の辞書や聖書のエンサイクロペディアがあると助かります。

例えば、ローマ10:9で「もし、あなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるのです。」とあります。また、聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です。」と言うことはできないともあります。この「イエスを主と告白する」とは、21世紀の日本人の視点ではなく、当時のユダヤ人の歴史的背景から見るとどのように捉える事ができるのでしょうか。10年以上前になりますが、ここカナダにあるビクトリア日系人教会に行っていた時、「イエス様は主ですと言えば救われるのよ♫」と牧師夫人がバイブルスタディで教えてくれました。しかし、これを聞いた時、僕はマタイ7:21でイエスが「わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではない」と言われたり、「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい」と言われていることを思いました。ですから、「イエスを主と告白する」とは、そんなに容易なことではないと思いました。聖書は矛盾することがないので、どのように理解すれば良いのでしょうか。その為にもパウロのいた当時の歴史的背景を知る必要があるのです。

当時のクリスチャンは、ローマ帝国から特別の扱いを受けていたユダヤ人とは違って皇帝礼拝を強要されていました。「カエサルは主です。」と告白して香を焚かなければ命を失っていたのです。そのような中で、唯一の主であるイエスを否定せず「イエスは主です」と告白することは、神の主権的な恵みによって新たないのちが与えられ、御霊なる神がその内に住んでいる本当の弟子にしかできなかったのです。ですから聖霊の働きの中、新しく生まれ、自分を捨てて、自分の十字架を背負って、主に従って行くことができたのです。もちろん、当時、「十字架を負う」ということは「死」を意味していました。主は「いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音のためにいのちを失う者はそれを救うのです。」とマルコ8:35で言われました。たとえ全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら何の得になるのでしょうか。

イエス・キリストの福音だけが、やがて来る神の怒りから私たちを救ってくれるのです。それは、恵み豊かな神が、御子を遣わしてくださり、キリストが私たちの罪を背負って十字架の上で神にのろわれた者となり、正義であられる神の怒りを一身に受けて死んでくださったということです。そして、死に打ち勝たれ、三日目に復活されたのです。誰でも罪を悔い改め、キリストに信頼する者は、罪赦され、イエスの義で覆われ、この世の歩みを終えた後も、主がよみがえられたように、いつの日にか、よみがえる希望が与えられているのです。ですから、死を覚悟して「イエスは主です」と告白できたのです。一体誰が、本当に真理だと信じていないイエス・キリストのことで「イエスは主です」と言って命を捨てるでしょうか。

また「イエスは主です」と告白するもう一つの大きな理由があります。当時のローマの社会と経済は奴隷制度によって支えられていました。また、ユダヤ人の間でも、奴隷を買ったり(出エジプト21章)、貧しくなったり借金を返済できない場合、身売りをすることがありました(レビ25章)。もちろん、これはアフリカ大陸で黒人の人たちを誘拐して成り立っていた、イギリスやアメリカの奴隷貿易とは全く違います。ちなみに、聖書の出エジプト21:16では人をさらう者は死刑に処せられると命じているので、人を誘拐して売買していた奴隷制度は聖書の教えに真っ向から反しています。その一方で、それぞれの聖書の文化の中での奴隷制度の共通点は、「奴隷は主人に買い取られた主人のものである」ということです。そして、当然ながら「奴隷」を所有しない「主人」はいません。何故、これがイエス・キリストと私たちクリスチャンの関係を表している言葉なのでしょうか。

神の前に罪を犯した私たちすべての人は、支払いきることのできない負債を負って、罪の奴隷となっています。しかし、キリストはそのような私たちを罪の中に捨て置かず、あわれんでくださり、十字架の上で私たちの負債を代わりに支払ってくださったのです。傷もなく汚れもない子羊のようなご自身の尊い血をもって、私たちを買い取ってくださいました(1ペテロ1:18-19)。ですから、キリストが私たちの「主人」、ギリシア語でkurios (κύριος, koo·ree·os)「(絶対的な主権を持つ)主」となられ、私たちが主の「しもべ」すなわちdoulos (δοῦλος, doo´-los,ギリシア語で本来、奴隷という意味)となったのです。当時のユダヤ人も異邦人も、「イエスは主です」と告白する時、主が買い取ってくださったので、自分は主の奴隷なので、自分自身全てが絶対的な主権者であられる主のものであるということを認めていたのです。これが、自分を捨てるということです。ただ、口で告白するだけではなかったのです。

ですから、「もし、あなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるのです。(ローマ10:9)」しかも、ただ奴隷とするだけでなく、養子として「神の子ども」の身分も与えてくださったのです。本当に御父はどんなにすばらしい愛を与えてくださったことでしょう!もし、「奴隷」と言う言葉に否定的な感情が伴うのであれば、それは21世紀の私たちの視点で聖書を読んでいるからです。主の奴隷であるということの素晴らしさについては、別の投稿でじっくりと見たいと思います。

結論

聖書を今の時代に持ってきて当てはめたり、21世紀の日本人の世界観を持って聖書を読むのではなく、聖書の書かれたその当時のユダヤ人になって読んでいかなければいけません。「言語」、「文化的背景」、「地理的背景」、「歴史的背景」の四つの溝を無視して読んだ場合、「新しく生まれる(新生)」や「イエスを主と告白する」といったような福音の理解の仕方に影響を与えることに気が付かれたと思います。私たちが聖書を正しく読んで解釈し、主の素晴らしさを味わい、それを見つめ、心を変えられてキリストに似た者へとされる中(聖化)、私たちの世界観が聖書的になり、神の視点から全ての物事を見ることができるようになっていくのではないでしょうか。そのプロセスの中、主を仰ぎ見て喜ぶことができるのではありませんか。

もし良ければ、シェアをしてくださると嬉しく思います。栄光在主


参考資料

  • The MacArthur Study Bible
  • The New Strong’s Dictionary of Hebrew and Greek Words
  • The Reformation Study Bible

ビクトリアの北、シドニーの町のそばの公園。天気の良い晴れた日はMt. Bakerが見えますが、本土での火事のため霞んで見えませんでした。

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