聖書

キリストを知る:聖書の読み方編ステップ2解釈パート2:越えるべき溝1

私たちは本を読む時、自分の世界観という色眼鏡をかけて読んでいます。聖書を読む時も、私たちは知らずのうちに21世紀の日本人と今まで自分の培ってきた世界観を通して理解しています。以前に軽く触れましたが、聖書の解釈には、大きく分けて二通りの方法があります。私たちの色眼鏡で聖書を読み解釈していくeisegesis (個人的解釈)と神が意図したみことばの意味を調べ解釈していくexegesis(聖書釈義)と呼ばれるものです。私たちが神のことばである聖書を正しく理解するには、神が意図して語ったその意味を知る必要がありますよね。その為にも聖書を読んで、直ぐに応用に至るのではなく、まず解釈をしなければいけません。今回からそのexegesis(聖書釈義)について軽く見ていきたいと思います。

ステップ2 :解釈

四つの埋めるべき溝

聖書は今から約2000千前に1500年の間に渡って、三つの大陸で四十人以上の著者によって三つの原語で書かれた、66冊の書簡からなる誤りなき神のことばである一冊の書物です。神がその当時の人に語られ(特別啓示)、聖霊によって動かされた人たちが神からのことばを書き記しました(2ペテロ1:21)。その一方で、それぞれの著者の個性が色濃く現れていています。神のみことばが与えられた当時のユダヤ人に対してまず第一に書かれている為に、21世紀に生きる私たちが聖書を正しく理解するためには越えなければならない四つの溝があります。その内の二つを見て、その溝が私たちの福音の理解にも大きく影響を及ぼしていることにも触れていきたいと思います。

1. 原語の溝

旧約聖書はへブル語と一部アラム語で、新約聖書はギリシャ語で書かれました。その言葉の意味を理解する事が、正しい解釈の鍵となります。例えば、「心」と聞いたら日本人である私たちは何を思うでしょうか。「心が打たれる」「心が弾む」「心が騒ぐ」など精神状態や感情を表す言葉としてよく使われています。しかし、ヘブル語で「心」はלֵבָב(lebab)で、この意味は、「内なる人(人そのもの)」、「考えを司る中枢」、「知性」、「意思」や「感情に左右されない理性」といったものを指しています。心が揺り動かされたり、感動した時の感情などを現す場合はエレミヤ31:20であるように「はらわた」などの言葉を使います。この違いを知ることによって、マタイ22:37の「心を尽くし、、、主を愛せよ。」とあるところを「相手をよく知らない恋愛関係にあるような盲目的な感情で熱心に愛しなさい」と教えていないことが分かります。逆に、キリストのことばを、わたしたちのうちに豊かに住まわせ(コロサイ3:16)、みことばを通して神のことを知り、「心の一新によって自分を変え」(ローマ12:2)、私たちの思考、意思や望みなど人格全てを用いて主を愛していくということだと分かりますよね。そして、この心が私たちの感情に働きかけ、霊とまことの礼拝につながるのです。聖書を正しく読んで神を知ることなしには、神の命令を守り神の栄光を現すこともできないし、その神を喜びとすることもできません。

2. 文化の溝

聖書の文化的違いは、21世紀に生きる現代の私たちが理解するには難しい場合があります。聖書を書かれた神の意図を理解する為には、書かれた当時の文化的背景を学ぶ必要があります。1世紀のユダヤ人文化を知る事なしに、福音書を読んで理解する事は難しいかも知れません。また、その他の書簡はギリシャとローマの文化背景を基に読む必要があるでしょう。

例えば、ヨハネの福音書の3章で主がニコデモに「人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません。」と言われました。以前、この箇所を読んで、「水によってとは破水して赤ちゃんが母の胎から生まれ出ることで、御霊によって生まれるとはイエスを信じて霊的に生まれることだ」と言われる方がいました。しかし、当時のユダヤ人の間では「赤ちゃんが生まれる時に破水する」という表現はされなかったそうです。イスラエルの教師と言われ、神のことばと律法に精通したニコデモが「水と御霊によって生まれなければ」と聞いた時、何を連想したでしょうか。直ぐにエゼキエル書36:25-26や11:19にある、神の一方的な恵みによって、すべての汚れからきよめる「きよい水」と「新しい霊」を授けてくださる、新しい契約について思いが向けられたことでしょう。(テトス3:5やエペソ5:26も参照)これらの箇所で、新しい契約について主がどのような業を「ご自身の聖なる名のために」、成し遂げてくださるかと宣言されています。それは、罪人を救うために、「わたし/わたし」とあるように、私たちの意思に関わらず、主がすべての救いの御業を行なってくださるということです。また「あなたがた」と人は受け身で書かれているのにも注目してください。赤ちゃんが自分の意思によって母のお腹に宿ったり、産まれ出たりする事ができないように、人も自分の意思や意欲によって新しく生まれることができず、人のたましいの救いは100%主の働きなのです。しかし、行いによって救われることを教えて、また信じていたパリサイ派のニコデモには、その時には主の意味したことが理解できなかったのでしょう。ここに人の自由意志という観念は一切ありません。

人が神の救いに預かるために、「信じる決断をして新しく生まれる」と以前の僕自身と同じように、今も多くの方が、誤解されている方がいます。今の世界観を持って聖書を理解しているためではないでしょうか。「信じる」という正しい行いを、罪のために堕落して罪の中に死んでいる人が一体できるのでしょうか。エレミヤ13:23で、「クシュ人がその皮膚を、ひょうがその斑点を、変えることができようか。もしできたら、悪に慣れたあなたがたでも、善を行うことができるだろう。」とまであります。善を行う者は一人もいないのです。また「悟りのある人はいない。神を求める人はいない。」(ローマ3:11)とあるのに、どうして生まれながらの人が神を信じる決断をできるのでしょうか。「神の主権は人の自由意志には及ばない」という概念は聖書にはありません(ローマ9章)。風がどこから来てどこへいくのかを人が支配できないように、御霊なる神によって新しく生まれること(新生)を人が自分の意思で決めることもできません。新しく生まれたからこそ、信じることができるのです。死人が神の声を聞いて生きるのです。盲人の目を開いてくださりキリストのご栄光を仰ぎ見ることができるのです。「悔い改め」の心も「信仰」も神からの賜物なのです。ですから、神の主権的な恵みのみによって人は救われるのです。「人の救いを最終的に決めるのは人の自由意志である」と信じるのと、「神が霊的に死んだ状態の人にいのちを与えて新しく生まれさせて神を信じることができるようにしてくださる」と信じるのでは、主権者なる神のご性質の理解や福音の恵みの性質も大分と変わるのではないでしょうか。

今回は聖書を読んで解釈する時に、私たちが越えなければいけない四つの溝のうちの二つを見ました。ほんの少しの視点の違いで聖書の理解の仕方が大きく変わることに気が付かれたと思います。神が意図して語ったことこそが本当の聖書の意味なのです。私たちの世界観で聖書を読んで、その解釈を誤ってしまうと、気が付かない内に、神について、キリストについて、福音についての理解が大幅に変わっていきます。その結果、福音を変えて伝えてしまったり、異端へとつながっていってもしまいます。それを防ぐためにも、日々祈りつつ御霊なる神に助けられつつ、誤りなき神のことばである聖書を読んでいくことが大切ではありませんか。聖書の学びシリーズも是非ご覧ください。また、シェアしてくださると嬉しく思います。


参考資料

  • A Concise Dictionary of the Words in the Greek Testament and The Hebrew Bible
  • New American Standard Hebrew-Aramaic and Greek Dictionaries: Updated Edition
  • The MacArthur Study Bible
  • The New Strong’s Dictionary of Hebrew and Greek Words
  • The Reformation Study Bible

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Mt. Douglas Beach Parkで。お弁当を食べた後に、子供達がいつも遊ぶ大木です。シッカリと根を張って育っていますが、今では大きな穴が開いています。

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