聖書

キリストを知る:聖書の読み方編ステップ2解釈パート1:避けるべき誤り

誤りなき神のことばである聖書は、神について何を信じなければいけないか、また神は私たちに何を求めておられるか、ということについて書かれている唯一の書物です(WSC3)。実際に聖書を手に取って読んで初めて、救い主なる神について知ることができるのです。しかし、私たちは、読んだ内容を正しく理解しているでしょうか。使徒8:30でエルサレムから帰る途中の馬車に乗って、イザヤ書を読んでいるエチオピア人の宦官にピリポが、「あなたは、読んでいることが、わかりますか」と尋ねましたよね。言い換えると、聖書が語っている内容の理解はできたか、と聞いたのです。著者である神が意図したみことばの意味が、「みことば」なのです。そのみことばを読んだ後、今度は、正しく解釈をして、みことばの意味を知り、神のご人格とみこころを知る必要があります。私たちは聖書を読む時、無意識のうちに頭の中で読んでいる内容をプロセスしています。しかし、正しく解釈して、聖書に書かれている意味そのものをしっかりと理解しているでしょうか。

聖書の解釈には、大きく分けて二通りの方法があります。exegesis(聖書釈義)と eisegesis (個人的解釈)と呼ばれるものです。簡単に定義をするとexegesisは著者である神の意図を調べて読み取る方法です。もう一つのeisegesisは、自分の見解で、今の自分の状況や今の時代をもとに、神様がこのように言われている、と読み取ることです。シャツのボタンを一つかけ間違えると残りも自動的にかけ間違えてしまいますよね。同じように、聖書を解釈する方法を誤ってしまうと、聖書全体の教えの理解にも誤解が生じてしまいます。中には福音そのものを変えてしまう重大な誤りすらあります。

前回の投稿でも書いたように、これは、パリサイ派や律法学者の人たちが持っていた問題と同じで、イエス様の時代からあったものです。そもそも、ハバクク2:4やローマ書4章でも明らかにされている通り、旧約時代の人々も恵みの故に信仰によって救われました。しかし、ユダヤ人の指導者たちは、神の国に入る為には自分たちの律法の解釈に基づいて考え出した「自分たちの言い伝え」を守ることが必要であると説いていました。つまり、割礼や慣習などを守るといった人の行いによって救われることを教えていたのです。けれども、主イエス・キリストはそうではありませんでした。主は、聖書が本来教えていた意味に戻り、罪の悔い改めと罪の赦し、神の恵みによる一方的な神のご好意による救いを説いて、旧約聖書から約束されていた新しい契約の時が来たことをも教えました(コロサイ2:17)。その為に、主はマルコ2章22節で、「また、だれも新しいぶどう酒を古い皮袋に入れるようなことはしません。そんなことをすれば、ぶどう酒は皮袋を張り裂き、ぶどう酒も皮袋もだめになってしまいます。新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるのです。」と言われました。この神の福音とユダヤ教の両方を保って一緒にすることはできず、完全に切り離さなければいけないと主は言われたのです。ガラテヤ書5章4節で「律法によって義と認められようとしているあなたがたは、キリストから離れ、恵みから落ちてしまったのです。」とある通りです。また、主は「律法を廃棄する為に来られたのではない」と言われたので、「古い皮袋」とは明らかに神の律法のことを指して言われたのではなく、指導者たちの誤った神のことばの解釈に基づく律法、すなわち当時のユダヤ教に対して言われたのです。もちろん、この箇所から私たちも「新しい皮袋」を作ると言って、今の時代に適した「新しい神学」を作ることもできません。福音は変えることができないからです。

次の投稿で正しくexegesisする為に必要なことを見たいと思いますが、今回はeisegesisについて軽く目を通して、聖書を読む時に避けるべき誤りを三つ挙げたいと思います。これらは、僕自身、初めて聖書を読み始めたときにしてしまったものです。

一つ目は、文脈を考えずに、一つの聖書箇所だけを取り出して解釈しない、また、正しい解釈をする事なしに結論に至らない、ということです。例えば、マタイ18章19ー20節で、「あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえて下さいます。ふたりでも3人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」と主が言われました。この箇所を使って、「祈祷会の祈りは聞かれる」と言われる方が多くいます。しかし、ここでの文脈は罪を犯した兄弟に対する教会戒規です。その前後も兄弟の罪を赦すことの大切さを教えています。ですから、文脈からこの箇所は、「罪を犯した兄弟に対応する時に、信徒たちが下す聖書に基づいた決定を主も認め聞いてくださる」ということで、祈祷会に関しての箇所ではありません。一人で祈る時も、いつも主は共にいてくださいますよね。このように、聖書に言ってもらいたいことを言わせずに、文脈を考え、神が書かれた意図を正しく理解していく必要があります。

2つ目は、 霊的な解釈をしない、ということです。普段の生活の中で本を読む時、隠された意味を探しながら読んだりはしませんよね。同じように、聖書も文字通りに意味することを読まなければいけません。例えばマルコ16:4で、主を納めた墓の前に転がされた石が出てきます。そこで、この石を私たちの人生の中での苦難や試練と例えて、「イエス様を信じる人はこのような石が転がされ勝利の人生の中に生きることができる」と理解する方がいます。しかし、ここでの石の意味は墓の前にあった転がされた大きな石のことです。文と文の間に隠されていることを探さずに、普通に読んで理解すればよいのです。

3つ目は、「私はこの箇所はこういう意味だと思います。」「神様は私にこう語りました。」や「こう言っていると感じます。」と言ったような表面的な解釈を避ける(新正統主義や自由主義神学を避ける)ことです。神のことばである聖書を正しく理解するには、自分の個人的な「感覚」や「感情」で読むのではなく、書かれた時代背景などを理解しつつ読む必要があります。そのためには、聖書を今の時代に持ってきて当てはめるのではなく、まず第一に聖書が書かれた当時の人たちに自分自身がなるという事が大切です。

今回は、聖書を読む時に、私たちがよくしてしまう過ちをザッと見てみました。聖書は神が私たちに与えた下さったこの上もない恵みの一つです。聖書が無ければ、私たち人は神を知ることもできずに、救いの恵みにあずかることもできません。ですから、その聖書を読む時、正しく解釈をすることはこの上なく大切なのです。歴史は繰り返されると言われますが、当時のユダヤ人の指導者が神のことばを誤って理解して救いを失っていたように、今の世でも、混ぜものがされた福音が語られています。聖書を正しく解釈しなければ、そのような異なる福音を信じてしまう危険性があります。「聖書のみことばの意味はみことばから」ということを忘れずに、祈りの中で聖霊なる神に頼りつつ聖書を読んでいきたいと思います。良ければ、フォローしてシェアして下さると幸いです。

栄光在主

参考資料

Fort Rodd Hill & Fisgard Lighthouse National Historic Sites
Fort Rodd Hill and Fisgard Lighthouse National Historic Sitesにて撮影。少し曇っていましたが、海の青の中にオレンジと白の灯台のコントラストが美しく浮き出ていました。

“キリストを知る:聖書の読み方編ステップ2解釈パート1:避けるべき誤り” への 5 件のフィードバック

    1. ありがとうございます!このコメントはベストタイミングで、神様からの僕の祈りに対する応えです。主に感謝です。

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