聖書, 弁証学

キリストを知る:聖書の信憑性を裏付ける五つの証拠2

キリストを知る為に、私たちは日々、祈りの中、御霊に助けられつつ、聖書を読んでいかなければいけません。知らない方を霊とまことによって礼拝することは出来ませんよね(ヨハネ4章)。聖書は誤りなき神のことばであると、動かぬ確信を持たれていますか。エデンの園でエバに「神はほんとうに言われたのですか」と神のことばに疑いを投げ掛けたのは、他でもないサタンでした。今も、サタンは同じように全ての人に聖書に偽りが有ると疑わせて、神に信頼を置かせないように働いています。私たちが聖書を読む時、疑いの目で読むことは、そのみことばを書かれた神を疑うということにつながるのです。そこで今回も、聖書が確かに神のことばであると確信を持って読むことが出来るように、聖書の信憑性を証明する間接的な証拠を見ていきます。前回の投稿で、五つのうちの二つ、経験と科学を見ました。今回は、残りの三つを見ていきたいと思います。

3 奇跡

聖書には奇跡が記録されていて、それは超自然的な存在である神が聖書の執筆に関与されたというを示唆しています。他ならぬ神がその奇跡を行い、実際に目撃し、聖書に記されたのです。この奇跡を裏付けることによって、神が与えた聖書の内容には誤りがないという結論に結びつけることができます。ここで言う奇跡とは、自然界の法則を超えて神が介入することであって、忙しい駐車場でパーキングスポットを見つけたといったようなものではありません。これは神の摂理と言われるものですね*1。

まず一つ目が、世界の創造の奇跡です。何も無いところからは、何も発生しません。今世界があるという「結果」は、世界が始まるその「原因」が必ず必要となりますよね。この世界が存在する為には、世界を始められた方が必要です。その方が、聖書に御自身を明らかにされた、初めから永遠の内におられた無限で不変の神、自分以外に何も必要とされない自存自在の神、すなわち「わたしは、『わたしはある』という者である」と言われた神です。そして、この神が世界を創造されたからこそ、聖書の記述の中に科学と矛盾することは一切ないのです。

二つ目の奇跡は、主の死者の中からの復活です。イエスが復活された時、500人もの人たちがそれを目撃したとはっきりと記されています。しかも、当時それを目撃した人たちがまだ生き残っている、とパウロは1コリント15:6で記しています。つまり、イエスの復活の奇跡が嘘であるなら、その人たちが嘘だと証言できたはずです。しかも、初代教会の使徒と弟子たちの多くが、キリストを信じるその信仰の為に殉教しました。嘘であると知っている事の為に、誰も自ら進んで命を捧げる人はいませんよね。この復活の証拠はどのような陪審員も納得させるのに十分です。ですから、聖書に記された、否定することができないこれらの奇跡が、聖書は確かに神のことばであるというサポートになるのです。

4. 預言

ノストラダムスの大予言に、小さい時に興味をとても惹かれましたが、誰も聖書の預言については触れていませんでした。ノストラダムスの場合は、曖昧に書かれているので、読み手によって好きなように理解して解釈することが出来ます。しかし、聖書の場合は歴史上の重大イベントが起こる前に、はっきりと詳しく預言をしています。例えば、アレキサンダー大王の台頭と死とその後継者の争い(ダニエル11章)、ツロの陥落では、その壊滅した町の瓦礫が後に海に投げ入れられる事まで記されています(エゼキエル26章)。BC530頃に書かれたダニエル書では、アハシュエロス王のエルサレムの町の再建がBC445年に出されてから69週の後に、すなわち483年後に、イエス・キリストのエルサレム入城をAD30ニサンの月の10日(ダニエル9章)に起こることを預言しています*2。また、主の死と復活については、イエスの生まれる700年も前に、特にイザヤ53章や詩篇22篇で預言されていました。これらの既に起こった預言を、歴史の本を片手に読めば、その正確さに驚くことでしょう。もちろん、新聞を読む時に聖書を片手に読むのは避けた方が良いでしょう。後に起ころうとする事を告げることが出来るのは、全てを聖定(*3下記参照)された神が聖書を書かれたからに他ありません。(イザヤ44:6-8)

ピーター・ストナーが書いた「Science Speaks」という小さな本で、3,4つの旧約聖書の預言を選んで、それが偶然に起こるという確率を見た場合、200京分の1(京は10の30乗)の確立で起こると算出しました。それは、テキサス州の面積に16メートルの深さで、銀色のコインを敷き詰めて、その中の一つにXしるしを付けたとします。そして、目隠しをした人が一枚コインを拾った時、ドンピシャでX印のついたコインを拾う確立と同じです。これは、たった3、4つの預言についての確立であって、聖書の中にはこの他、何百という預言がなされていて、それがすべて当たって来ているという事実を見逃すことは出来ません。

5. キリストが聖書の権威を信じていたこと

聖書は神のことばであるから、それ以上に高い権威を持つものはありません。以前に見たように、神ご自身が語っているのと同じだからです。しかし、「聖書が誤りなき神のことばである」という証拠をあげる時、「聖書自体がそこには誤りがないと証言しているから」と説明してしまうと、循環論法となってしまい、クリスチャンでない方にとって納得のいく理由とはなりません。ですから、それを避ける為に、証明するための出発地点を少し変えて、聖書の外から始める必要があります。それは、今も現存する数多くの聖書の写本を比べることによって、聖書は執筆された当時から変わっていないということが、論理的に導いた結果証明されている(本文批評)というところからです*4。その為に、聖書を神のことばと信じていない多くの学者からも、聖書は歴史的にも信頼の置ける書物だと受け入れられています。そして、その聖書はイエス・キリストについて書かれています。その中で、「まことに、あなたがたに告げます。天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます。」とマタイ5:18であるように、主ご自身が、みことばの権威を信じていることが、学者たちの間でも認められています。すなわち、歴史的にも信頼の置ける書物である聖書の中で、主ご自身が「聖書は神のことばである」と主張したということです(ヨハネ17:17でも)。もし、このことを主が言ったのでなかったなら、先ほどの結論に反して、聖書自体が歴史的に信頼の置けない書物であるとなってしまいます。また、ヨハネ8章でも、主ご自身が神からのことばを語ったと証言しています。もし、主の言われたことに誤りがあるならば、主は偽りの証言をしてしまったことになります。その場合、主は罪ある者とされ、私たちの罪の為に、身代わりとなって死んで下さる贖い主となることは出来ませんでした。ですから、私たちの救いと聖書が誤りなき神のことばであることは、イエス・キリストの証言にかかっているのです。上記に記したことで誤りがあるのなら、聖書をただ否定するのではなくて、その誤りを聖書の中から指摘をする必要があります。もし誤りを指摘できないのであれば、神のことばとして、主の主張を受け入れる必要があるのではないでしょうか。

経験、科学、聖書の奇跡と預言、主のことば、これら5つの分野で聖書のみことばが、誤りなき神のことばであると確信を得ることができるのです。聖書を読む時、ただの古い書物ではなく、生ける神のことばを読んでいるのです。このみことばを通して、まったくの聖であり義であられる神の御性質を知り、罪の中にある私たちの本性を知って、正しい神の怒りと永遠の滅びの刑罰を受けるに値する私たちの結末を知ることができるのです。そこで初めて、主を恐れ、主にあわれみを乞い、救い主なるイエス・キリストを仰ぎ見て救われることにつながるのです。恵み深い主は、私たちを愛して、私たちの罪を背負い十字架の上で神の怒りを身代わりとなって受けて死なれました。そして、よみがえった後、天に昇り、今や父なる神の右の座に座られています。私たちの汚れた衣を脱がせて、この方の正しい義の衣で私たちを覆ってくださったのです(ゼカリア3章)。聖書を通して、ますます神の偉大さを知り、自分の内に未だ残っている罪の深さを知って、神の恵みと福音の深さを学んで行くことが出来るのです。神を知り、その方の麗しさを仰ぎ見て、神ご自身を喜ぶ為にも、聖書が確かに神のことばだと確信を持ち、信仰の歩みを進めて行きたいと思います。良ければ、フォローとシェアして下さると嬉しいです。今後とも宜しくお願い致します。


*1) 問11 神の摂理の御業とは、何ですか。

答 神の摂理の御業とは、神が、最もきよく(1)、賢く(2)、力強く、すべての被造物とそのあらゆる動き(4)を保ち(3)、治めておられる(4)ことです。1.詩145:17。2.詩104:24、イザヤ28:29。3.ヘブル1:3。4.詩103:19、マタイ10:29-31

*2) ここでの一週は年を単位に表しているものです。ユダヤ人のカレンダーは一年360日で、1年365日とする太陽暦に換算して(69×360/365)483年後としました。

*3) 問7 神の聖定とは、何ですか。

答 神の聖定とは、神の御意志の熟慮による永遠の決意です。これによって神は、御自身の栄光のために、すべての出来事をあらかじめ定めておられるのです(1)。1.エペソ1:4、11、ローマ9:22-23

*4)聖書の原典と写本の違いは1%未満であり、教義を根底から変える違いはありません。大きな物でも、例えば、1テモテ1:16の言葉の違い(KJV:GodとESV: he who)や死海文書の発見によって判明したイザヤ書21章8節の言葉の違い(KJV:lionとESV: he who saw)などがあります。そして、写本筆写の人たちは、その違いも写す過程で残しておいたので、聖書の原典の内容は全て維持されている事が解っています。この原典が誤りなき神のことばであるという無誤無謬性を反映していますが、その写本である今の聖書も神の摂理の内に変わらずに、誤りなき神のことばとして保存されたと受け入れることができます。


参考資料

ビクトリアの夏の海。晴れた日は、青い空の色が海に映し出されています。息を飲むほどの美しい海を見つつ、創造主なる神の御業を褒め称えます。

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