聖書, 弁証学

キリストを知る:聖書の信憑性を裏付ける五つの証拠1

私たちが、聖書を読む目的は何でしょうか。それは、神を知り、神の栄光をあらわし、神ご自身を喜ぶ為です。聖書から、キリストの素晴らしさを味わい、そこから礼拝が自然と生まれるのです。人は救われる為に、また神を礼拝する為に、聖書以外から、神について知ることが出来ないのです。神のことばである聖書は、他の書物とどのように違うのかと前回の投稿で見ました。しかし、ここで生まれる疑問が、果たして聖書は本当に信頼できる神のことばなのだろうかということです。

どの宗教も、自分たちの聖典は真理であると主張しています。私たちは、ただ盲目的に聖書を信じれば良いのでしょうか。クリスチャンの信仰は、他の宗教と違い、現実と思想世界を別々に考えたり、信仰を神秘的に捉えたりする必要はないのです。もちろん、絶対的に聖書が真実であるとは誰にも証明はできません。何故なら、聖書が書かれているところを実際に目撃したり、私たちのいる小さな世界を抜け出して、その著者である神に直接尋ねることが出来ないからです。しかし、大きく分けて5つの分野で、聖書は確かに神のことばであると言う結論を論理的に導き出すことが出来ます。今回はその内の二つを見ていきたいと思います。

1. 経験

聖書は、全体を通して、私たちに様々な経験を与えると約束しています。例えば、罪の中を希望もなく歩んでいた人たちがキリストに出会い、罪を赦され、罪悪感と死の恐怖から解放されることや、また罪の中に死んでいた者が新しく生まれ、罪を悔い改め、信仰に導かれ、希望の中に喜び、よみがえられた主と共に歩むといった経験です。

その一方で、人の経験に基づいて聖書が正しいと証明し始めると、様々な怪しい経験をした人に出くわすことがあります。人の経験というのはある意味、一番弱い証拠です。2ペテロ1章後半で、変貌の山で、人としてのイエスではなく、神としての栄光のイエスに出会ったペテロは、その経験よりもさらに確かな預言のみことばを持っていると言いました。すなわち、どのような素晴らしい経験であっても、みことば以上に確かであり、権威のあるものはないということです。私たちの経験を通して聖書が確かに神のことばであるとあかしする時、その経験はみことばで記された範疇を超えてはいけないということです。

2. 科学

聖書が誤りなき神のことばであることを結論付ける二つ目の証拠は、科学です。聖書は、科学的用語を使わずに、私たちと同じように人の視点から物事を語っています。例えば、誰も「日が沈んだね」と言った時、「君は何て愚か者なんだ。太陽が地球の周りを回っているとでも思っているのか?」とは言いませんよね。しかし、聖書が科学についてふれた時、そこには一切過ちが有りません。それは、全てを造られた神のことばが書き記されているからです。天地創造の神を否定する進化論を学校では教えられ、聖書に書かれている内容は科学に反すると思われる方が沢山いらっしゃいます。ここでは触れませんが、正しく科学を学べば、創造論を教える聖書に誤りはないと結論に達することが出来ます。

意外と知られていない聖書の科学的記述の例として、イザヤ55:10の水の循環について書かれた箇所があります。水文学は近年(18世紀)にわたって発見されたものです。それは天から降った雨が地を潤し、それが集まり川となって海に流れ、太陽の熱で蒸発して天に昇り、冷えてまた雨として地に降るといったものです。このことが聖書の中でも一番古い可能性のあるヨブ36:27にも書かれています(BC1445以前)。アイソスタシー(均衡説、イザヤ40:12)、地球が宙に浮いていること(ヨブ26:7)など、神は天地を作られたときからご存知でした。ハーバート・スペンサーは宇宙に存在する全ての物が以下に分類できると発見した人です。すなわち彼は全ての物が、時間、力、空間、物質、作用(アクション)の5つに分類できると発表しました。世界は彼を偉大な科学者だと称賛しましたが、聖書の一番初めのみことばにそのことがはっきりと書かれています。創世記1:1「初めに(時間)神が(力)天(空間)と地(物質)を創造した(作用)。」

もちろん、その他の分野、例えば考古学でも、聖書に書かれていることが歴史的な事実であると裏付けられています。

聖書が科学について語った時、そこには誤りが一切有りません。聖書を読んでいて直面する問題があるかもしれませんが、それは以下のどちらかによって解決されます。まず、残りの聖書全体の箇所をみて、正しく解釈することによってです。二つ目は、申命記29:29に「隠されていることは、私たちの神、主のものである」とあるように、神様に会うまで理解することは出来ないと悟ることによってです。

よくある誤りは、聖書を解釈する時、誤った視点や理解の仕方で聖書を読んで解釈することです。例えば、聖書は矛盾したり、誤りだらけ(新正統主義)という前提で聖書を読むと必ず誤った結論に達します。また、聖書が曖昧ではっきりと語っていないということを前提にすると、これまた、真実ははっきりしていないとか、人それぞれの解釈や感じたことが真理であるといった(自由主義神学)誤りの結論に達します。これは、聖書は正しい道そのものであり、はっきりとしていると詩篇19:8(主の仰せはきよく)や119:105(足のともしび、道の光)にあるように、聖書のことばと反する教えです。聖書の教えを無視して、人が考え出した哲学などの視点で、聖書のみことばをとらえて、神はこういう方だと結論付けるのは、ある意味、神の知識に逆らって立つ高ぶりとなりますよね(2コリント10:5)。なぜなら、神ははっきりと私たちに語ることもできない、無能な方であると決め、聖書の上に人の権威を置いて、聖書の意味は私たちが良いと思う意見などで決めるというおごりが入っているからです。また、自分たちで神はこうだと決め付けて、人のかたちにしたがった神を作り出す偶像礼拝につながってしまいます。

今回は、聖書が確かに誤りなき神のことばであると言える証拠の五つのうち二つを見ました。色々な聖書に対する批判がある中でも、今手元にある聖書は確かに神のことばであると確信を持って読むことが出来るのです。私たちが聖書を信頼して読むということは、聖書を書かれた神ご自身に信頼を置いているということです。。その中でキリストを知り、主と共に歩んでいければ幸いです。次回は残りの三つを見ていきたいと思います。よければ、フォローとシェアをしてくださると嬉しいです。

参考資料

John MacArthur, The power of the word in the believer’s life, part 1.

The MacArthur Study Bible

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