聖書

キリストを知る:聖書の読み方ステップ2解釈パート5:四つの原則2

「人のおもな目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことです」(WSC1:ウェストミンスター小教理問答問一)。知らない方をどのように愛し、喜びとすることができるでしょうか?ですから、私たちは神がご自身をあらわす為に与えてくださった、聖書を正しく読んで解釈する必要がありますよね。これまでの投稿で、21世紀の日本に住む私たちが、聖書を読んで解釈する時に、よくしてしまう誤りや、越えなければいけない四つの溝である、原語、文化地理、歴史を見てきました。そして、その溝を越える為に、聖書を解釈する時に覚えておく四つの原理の内、Literal PrincipleHistorical PrincipleGrammatical Principleの三つについて前回目を通しました。今回は四つ目の原理、Synthesis Principleについて、そして聖書を解釈する時に私たちがフォーカスを置くべきことについて見ていきたいと思います。

理解すべき原理

1. Literal Principle

2. The Historical Principle: 歴史的原理

3. The Grammatical Principle: 文法の原理

4. The Synthesis Principle

これは宗教改革者達がanalogia scripturaとよんだものです。聖書の内には矛盾が無いというものです。神ご自身のことばである聖書は、神の御性質を現すものです。神ご自身が真理であり偽ることができないので、聖書自体の教えも誤りなく矛盾しないのです。ですから、聖書箇所の解釈は別の聖書箇所をもとにされなければいけません。聖書の解釈が別の箇所と食い違うのであれば、その解き明かしは間違いであるということです。神ご自身が意図した聖書の正しい意味を得るためには、聖書のみことばを、聖書の他の箇所と比較する必要があるのです。また、不明瞭な箇所は、明瞭な箇所に基づいて読み解く必要があります。(1コリント15:29とヘブル9:27:人には死んだ後も救われるチャンスがあるのか、また、ヤコブ2:24とエペソ2:8:信仰のみによって救われるのか行いも必要なのかなど)

私たちが神について聴いたり学んだりする時、それが果たして旧新訳聖書で一貫して教えられていることかと常に調べていく必要があります。使徒17:11で、「ここのユダヤ人は、テサロニケにいる者たちよりも良い人たちで、非常に熱心にみことばを聞き、はたしてそのとおりかどうかと毎日聖書を調べた。」とある通りです。何故なら、人の意見ではなく、聖書だけが真偽を測る物差しであるからです。

聖書解釈の前提

1. 聖書には誤りがなく、全体においても矛盾しない

ですので、聖書を解釈する時の前提は、神のことばである聖書には、一切の誤りや矛盾が無いということです。以前、組織神学について軽く触れました。これは、66の書簡からなる一冊の本である聖書の教えを分かりやすく、トピックごとに整理するものです。聖書の中に矛盾がないからこそ、論理的にも聖書全体の教えを整理をすることができるのです。その為にも、まず第一に、間違えることのできない教義、すなわち、神、キリスト、聖霊、人の性質と罪や救いの教義といった福音の核となるトピックについて整理をする必要があります。その上で、(無/前/後)千年王国説や大艱難時代といった終末論や洗礼式の様式などの二時的な教義をまとめていくのです。聖書に忠実に従って解釈をしていっても、この二時的な教義に関する結論は、必ずしも一致はありません。しかし、この中で一致がなくとも、それぞれの立場に立つ伝統的な神学者の間では福音の核となる教えにおいては一致があるのです。その一方で、二時的な教義の理解を元に、聖書の核となる教義を理解し解釈することはできません。この場合、異端となり福音を変えてしまう場合さえあるので気を付ける必要があります。例えば、「罪の赦された後、その人の救いはその人の行いにかかっている」、「永遠のいのちを失うこともある」、「救われるには洗礼式を受ける必要がある」などです。これらは、「罪人が救われるのは、行いによるのではなく、ただ神の恵みの故に信仰によって救われる」、「神の前に義と認められることは、すべて主の恵みであり、人は行いによっては誰も義と認められない」こと、また「救いは主のもの」であるという、聖書の明瞭な教えに反しているからです。(エペソ2:8-10、ガラテヤ2:16、21、5:1-5、ローマ3:19-30、8:28-30、ヨナ2:9、ピリピ3:8-9など)。

2. キリストの栄光をあらわす

この聖書は神のことばであって、人が考え出したものではありません。2ペテロ1:21で「預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだからです。」とあります。ヨハネ16:14で主は「御霊はわたしの栄光をあらわします」と言われました。つまり、この神のことばを啓示した聖霊は、キリストの素晴らしさを現すのです。また、旧約聖書全体もキリストについて証ししています。ルカの福音書の24章で、エマオに向かう途中の二人の弟子に主が言われました。 「『ああ 、愚かな人たち。預言者たちの言ったすべてを信じない、心の鈍い人たち。キリストは、必ず、そのような苦しみを受けて、それから、彼の栄光に入るはずではなかったのですか。 』 それから、イエスは、モ ーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに説き明かされた。」つまり、聖書を解釈する時、その解釈が私たち「人」にフォーカスが向くのではなく、キリストのご栄光、また、主の素晴らしさがそこに現れるべきなのです。

前回の例で見ましたが、「自分の行いによって救われた状態を保たなければ、救いや永遠のいのちを失う」という結論は、主の約束に反するもので、主を偽り者とする解釈です。ヨハネ10:27-30にこうある通りです。「わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。またわたしは彼らを知っています。そして彼らはわたしについて来ます。わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。わたしに彼らをお与えになった父は、すべてにまさって偉大です。だれもわたしの父の御手から彼らを奪い去ることはできません。わたしと父とは一つです。」このように、御父が御子の為に永遠の昔に選びお与えになった者、即ちキリストが救った者を決して失わないと断言して約束されています。また、その救いを自分の力で保つということは、私たちも少なからずと誇ることができると言っていることと同じです。これはエペソ2章の8と9節の「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。」に反しています。本当の救いは必ず良い行いにつながりますが、この行いが私たちの救いを確実なものにするのではありません。私たちの救いは神ご自身のご性質と約束にかかっているのです。救いを失うと言うことは、主のご栄光を現す解釈でしょうか?また、聖書全体を通しても、神の選びが変わることを教えてはいません。このように、誤って聖書を解釈することによって、福音の本質を見失い、神のご栄光を地に落としてしまうのではないでしょうか。

結論

聖書を解釈する上で前提とすることは、聖書は誤りなき神のことばであり、その中には論理的にも矛盾するものがないということです。それが、今回のSynthesis Principleで、analogia scripturaと呼ばれるものです。また、その解釈はキリストの栄光をあらわすものでなければいけません。

聖書を通して救い主なる方のことを深く知り、主の麗しさを仰ぎ見、主ご自身を喜ぶ為にも、私たちはこれまでに、聖書を正しく読んで解釈する大切さを見てきました。主を知ることによって、霊とまことによる礼拝へとつながるのではないでしょうか。「御座にすわる方と、子羊とに、賛美と誉れと栄光と力が永遠にあるように」黙示録5:13。これが、私たちが天においても、地においても、私たちがいつまでもすることではないでしょうか。


参考資料

  • The MacArthur Study Bible
  • The Reformation Study Bible
  • ウェストミンスター小教理問答書 日本基督改革派教会大会出版委員会編(榊原康夫訳)新教出版社

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