4人の子どもたちが与えられ、ちまたで言われる事がやっぱり本当だったんだと思わされることが多々あります。その内の一つが、言葉を話し出した子供は「何で~?」の質問がとにかく多いということです。例えば、「このお菓子食べていい?」と2歳児。ママはもちろん「ご飯前はダメよ。」すると次は「何で~?」です。「お腹いっぱいになって、ご飯が食べられなくなるからよ。」とママ。その次も、必ず、「何で~?」ですよね。全ての答えに「何で~?」で返って来るかのようです。小さなお子さんを持たれる方は、そのような体験を必ずと言っても良い程されているのではないでしょうか。
しかし、不思議なことに、大きくなるにつれ、「何で~?」の質問が減ってくるように見受けられます。クリスチャンと言われる方の中にも、「何故」という大切な質問をせず、教えられたことをそのまま受け入れる方が多くいるのではないでしょうか。例えば、「キリスト教では、人はどのようにすれば天国に入れると教えているのですか?」という質問に関してです。もちろんクリスチャンの方は「どんなに悪い事をしてしまったとしても、イエス様を信じれば、罪が許され、行いによってではなく、恵みの故に救われ、天国に入ることができます」と答えることができます。しかし、ここで「そうなんだ~」で終わって、「何故」という質問を忘れてしまうことがありませんか。この質問を深く考えることによって、聖書で一番大きな疑問、そして矛盾ともなり得る箇所に突き当たることが分かります。
それは、万物の起源でしょうか?それとも人類の始まりでしょうか?これらの答えは、さほど矛盾と言われる程のことはありません。ローマ書一章にあるように、一般啓示を通して理論的に正しい答えを、聖書を基に導き出すことができるからです。しかし、普段あまり考えない、神のご性質そのものに関わること程、重要な聖書の疑問また矛盾とも思われるものが出てきます。それは、「何故、正しい神が、私たちの罪を赦すことができるか」ということです。
これは旧約聖書の時代からの大きな疑問であり一見すると矛盾となるところです。出エジプト記34章では、神がどのような方であるかを主ご自身が宣言される箇所があります。「主、主は、あわれみ深く、情け深い神、怒るのにおそく、恵みとまことに富み、恵みを千代も保ち、咎とそむきと罪を赦す者、罰すべき者は必ず罰して報いる者。父の咎は子に、子の子に、三代に、四代に。」罪を赦すと同時に、どのように罰するのでしょうか?この二つは一見矛盾していますよね。アダムもアブラハムもダビデもそれぞれ罪人にも関わらず、神を信じることによってその罪が赦されたました。クリスチャンの方が当然のように受け入れ信じているこの「罪人を赦す正義の神」すなわち「神の正義」と「神のあわれみ」は、聖書最大の疑問、そして矛盾となり得る問題です。何故でしょうか。神の正義は必ず悪を罰する一方、神のあわれみは私たちが受けるべき当然の罰を取り除いてくれるものだからです。この二つの性質が1人の罪人に対して向けられた時、それらは相反するものとなります。「罪赦す正義の神」、これは福音の根本に関わる重大な疑問であり、その福音の理解を誤ることによっては矛盾を作り出す可能性のあるところです。この答えとして、多くの方が「神は愛です。あわれみ深いのです。罪を憎んで、罪人を愛してくださるのです。罪人は憎まれません。だから、その罪を赦してくださるのです。」と言われます。しかし、これらの答えははたして理にかなっているのでしょうか?「神の愛」と「神の正義」について、次の二つのシナリオを基に考えてみましょう。
「ユダヤ人を愛していますか?」とAさん。「もちろん愛しています。」とBさん。「ヒトラーのホロコーストについてどう思われますか?」とA。「別に、特に何も思いませんよ。その当時の人のしたことだし、その人たちの選択ですよ。私には関係ないことですので、よく分かりませんね。」とB。この答えを聞いたら、Aさんはどのように思われますか?Bさんは、ユダヤ人を愛するどころか、憎んでいるのと同じではないかと思われるでしょう。また、ヒトラーと同じような考え方を持っていると思われるかもしれません。もし、ユダヤ人を愛するのであれば、ヒトラーとまた彼のしたことを心から怒り、憎むでしょう。ゼカリヤ書2章にはこのようにあります。「あなたがたに触れる者は、わたしのひとみに触れる者だ。見よ。わたしは、こぶしを彼らに振り上げる。」愛のあるところには、必ずその愛する者を傷付ける者に対する怒りと憎しみがあるのです。神は愛されるからこそ、憎まれるのです。詩篇5:5に、「あなたは不法を行う全ての者を憎まれます。」とあります。このように、正しい神は罪だけでなく、罪人に対しても怒り、憎まれるのです。罪と罪人を分けることはできないのです。
そこで、中には「神様は、罪人を憎まれるが愛してもいるので、その罪を赦してくださるのですよ。」と言われるかも知れません。二つ目のシナリオを考えてみましょう。ある雨降りの暗い冬の夜のことです。仕事から帰って家に着くと、家は真っ暗でした。いつもなら、愛する伴侶と子供達が笑顔でかけて迎えてくれるはずです。一体どうしたのだろうと思いつつ、夕食を準備して待ちました。ここまで遅くなるなら連絡があるはずなのに、何か有ったのだろうかと不安になり電話をします。何度かけても通じません。ご飯が冷えたそんな中、静けさの中一通の電話が鳴り響きました。伴侶と子供達が飲酒運転の車にはねられ、ひき逃げ。人通りの少ない道で、発見され救急車が呼ばれるまで時間がかかり、病院でまもなく死亡したという知らせを受けました。数日後に犯人が罪悪感にかられ自首しました。この運転手は以前にも何度か飲酒運転で捕まり、免停中、その様な中でのこの事件。彼の裁判の判決の時に、裁判官は彼にどの様な判決を申し渡すか、遺族の方々の注目が集まっていました。裁判官は「この人物は、確かに何度も飲酒運転で捕まり、その中でこのひき逃げ死亡事故を起こした。しかし、彼は心から反省して、現に自首までして、もう繰り返さないと言っている。私は、心優しい、あわれみ深く、愛に溢れた裁判官なので、彼を無罪放免とする。」皆の驚きの中、裁判官は彼の方を見て「あなたは、今から自由です。」と判決を下しました。この判決を聞いたあなたは、「何て素晴らしい裁判官だ」と言って、この事を喜ぶでしょうか?いえ、逆に、マスコミに報道し、「正しい判決を下さず、悪人を正しいとする、不法をなす裁判官がいる。」と訴えて、正しいさばきを求めるのではないでしょうか?
このように、悪が正しく裁かれずに、見過ごされた時、私達は実際に怒りを覚えます。これは私たちの間でも許されるべきことではありません。まして、きよく正しい神においては、なおさらのことです。ある人たちは言われます。「神と人とは違います。神は愛です。私たちに正義を下される代わりに、あわれみ愛してくださるのです。だから赦すことができるのですよ」と。しかし、この答えを論理的に考えると、「神の愛は不正である」と言っているのと同じではありませんか。もしくは、聖書の神とは違う神を、自分たちの中で創り出しているに過ぎないかもしれません。「全世界の正しいさばき主」である方が、私たちの罪をただ見過ごして、赦す事はできないのです。箴言17:15で「悪者を正しいと認め、正しい者を悪いとする、この二つを、主は忌みきらう。」とあります。神ご自身が、このような忌み嫌うことをなさる方なのでしょうか?ご自身のご性質に反して、不正を行われるのでしょうか?絶対にそんなことはありえません。聖書にあるように、神は不変の神であられ、偽ることのできない方です。詩篇7:11には、「神は正しい審判者、日々、怒る神」とあります。また、マタイ10章28節に「からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」とあります。終わりのさばきの時に、神は罪を地獄に投げ入れるのではなく、罪人を火と硫黄の燃える池に投げ入れ、必ず罪人にさばきを下されるのです。
それでは、どのように、この正しい審判者である方が、私たちの罪を見過ごすことなく、その罪を赦すと同時に、正義を行いご自身の正しさを公に示すことができるのでしょうか?その答えが、イエス・キリストの十字架上での死であり、福音の核となる部分です。ローマ3章25節に、「神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現すためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。」とあります。アダムからキリストの十字架まで、見のがして来られた罪を、神はキリストの上で処罰され、ご自身が確かに正しい正義の神であられることを、公に証明されたのです。ここで、聖書最大の疑問と矛盾である、「罪赦す正義の神」のジレンマが取り除かれたのです。詩篇85:10で「恵みとまこととは、互いに出会い、義と平和とは、互いに口づけしています。」とあるように、罪を見過ごされない神の正しさと悪者の死を決して喜ばれない神のあわれみが、イエスの十字架の死によって出会い、神の恵みと平和が私たちに与えられたのです。主が私たちの罪を背負って十字架の上で神の怒りを受けてくださいました。正しいさばきが下され、律法の要求を満たされたのです。ですから、罪悔い改めて、イエス・キリストを唯一の救い主として信じる私たちの罪を赦し、義と認めて、天国に入れてくださることができるのです。滅ぶべき私たち罪人をあわれみ、愛してくださる神の恵みは何と深いのでしょうか。
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以下の投稿で「福音の核となるメッセージ」と題して、福音について説明をしましたので、是非読んでくださいね。



参考資料
- Gospel Transformation Bible
- Paul Washer’s sermon “Jesus took our place” from Heartcry Missionary Society
- The MacArthur Study Bible
- The Reformation Study Bible
- 奴隷6:主が求めることと、義認と聖化と律法主義
- Dr. Sproulの名作絵本:汚れた服を着た祭司
- みことばの糧:ルカによる福音書9章23節
- みことばの糧:マタイによる福音書11章28節
- 杯とのろい:神に見捨てられた者