福音, 恵みの教義

杯とのろい:神に見捨てられた者

先日、4人目の次女を抱き上げました。その時、2歳半の娘は「パパ お口 におう」と可愛い笑顔で一言。ハッとドキドキしながら、20年以上も昔、日本の入れ歯の洗浄剤ポリデントの宣伝で、孫娘がおじいちゃんに言った同じセリフが頭の中を駆け巡りました。戸惑いを隠しつつ、頭の中で「そんなはずはないのでは?」と、冷静に考えようとしました。このほんの少し前に、僕は歯磨きをして、しかもしっかりとリステリンで口を「クチュクチュ」したところだったのです。何故こんなショッキングな発言があったのでしょうか?実は、娘を抱き上げる直前に、今まで使った事のない、独特の匂いのするプロポリス入りのクリームを、荒れていた娘の口の周りに塗ってあげたのです。恐らく本人は、このように言いたかったのでしょう。「パパ(が)お口(に塗ったお薬が)におう」と。ポリデントの宣伝という先入観があった為、娘に僕の口が臭いと言われたと思い込んでしまいました。1番の英語の歌詞はこんな感じです。

このように、先入観で誤って物事を理解してしまったことが他にもないでしょうか?賛美でよく歌う「How deep the Father’s love for us」でも、僕はタイトルから同じような誤った思い込みをしていました。ところでこの曲をご存知でしょうか?日本語のあるタイトルでは「父なる神の深き愛」となっていました。ピンと来ないかも知れませんが、日本の教会でも賛美に使われているので、聴かれたら恐らく皆さんもご存知の曲です。僕も、以前、ここカナダのビクトリア日系人教会に行っていた時、10年以上も昔に賛美のチームで歌ったことから知りました。

How deep the Father’s love for us, How vast beyond all measure,

That He should give His only Son To make a wretch His treasure.

How great the pain of searing loss – The Father turns His face away,

As wounds which mar the Chosen One Bring many sons to glory.

How deep the Father’s love for us

日本語の歌詞を検索をして、日本語訳をいくつか見つけました。以下は英語を母国語とされ、日本でチャプレンをされている方が、このように訳されていました。

深き父の愛 はかりしれない 罪人らのため み子を与える
胸が張り裂けて 見ていられない み子の負う傷は われらの救い

そして、これは別の賛美のサイトで見つけたこの曲の意訳です。

この世にひとり子、与えた神の 愛の大きさは計り知れない
十字架のイエスが苦しまれるのを 耐えられ涙を流された神

この英語の曲自体、2番と3番でもイエス・キリストの身代わりの死を美しく歌い、神の一方的な救いの恵みを賛美で表現しています。「父なる神の深き愛」のタイトルから考えると、この賛美は父なる神の私たちに対する深い愛を題材にしています。その視点から見た為に、”How great the pain of searing loss –The Father turns His face away,”の部分で引っかかってしまい、この賛美にしっくりきませんでした。何故かと言うと、”How great the pain of searing loss”の箇所を、父なる神の視点から、十字架の上で苦しむ御子を見た時の深い悲しみを描写していると思い込んでいたからです。また、”The Father turns His face away”では、御父はその御子の苦しみを見るに耐えず、御子から顔を背けたと理解していました。上の日本語訳を見ても似たように解釈していますよね。確かに、ヨハネ3:16で「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された」とありますが、「十字架の上で苦しむ御子を見るに耐えかね顔を背けた父なる神」というコンセプトに引っかかってしまったのです。一見すると、もっともなセンチメントだと思います。しかし、これは聖書の真理に忠実な内容なのでしょうか?

この事を調べる為に、十字架の上で主に何が起こったのかにフォーカスを置いて見ていきたいと思います。そこで、まず主が十字架に付けられる数時間前のゲッセマネの園に遡ります。ここで、主は「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。」「わが父よ。できますなら、このをわたしから過ぎ去らせてください。」と悲しみ、また苦しみもだえ、切に祈られたとあります。そして、人が極限の恐れを抱く時に生じると言われる、血の混じった汗まで流れた(hematidrosis)と、歴史家であり医者であったルカは記録しています。この主が恐れた「杯」とは一体何なのでしょうか?ある人達は、それは「ローマの兵士たちから受けるむち打ち、頭にかぶせられるいばらの冠、手足を大きな釘で打たれて十字架の上で苦しみ死ななければならない事だ」と言われます。しかし、主の復活の後、沢山の者が現在に至るまで、キリストへの信仰のために殉教してきました。中には、暴君ネロによってローマの庭を灯すトーチとして身体に火を付けられたり、猛獣やグラディエーターと闘わさせられたりと非業の死を遂げた者も多数あります。しかし、彼らは死を目前として恐る事なく、キリストの苦しみにあずかる者として喜び賛美しつつ死んでいったと言われます。主に従う者達よりも、私たちの「救いの勇士」であられる主が、ローマ兵から受ける苦しみを恐れたと言えるでしょうか?そんな事はまずあり得ませんよね。

では、主が恐れた杯とは何でしょうか。新旧両方の聖書のことばを通して「杯」について記されています。イザヤ51:17「主の手から、憤りの杯」、51:22「わたしの憤りの大杯」、エレミヤ25:15「この憤りのぶどう酒の杯をわたしの手から取り、わたしがあなたを遣わすすべての国々に、これを飲ませよ。」、黙示録16:19「神の激しい怒りのぶどう酒の杯」とあります。そして、黙示録14:10では、「そのような者(獣とその像を拝む者)は、神の怒りの杯に混ぜ物なしに注がれた神の怒りのぶどう酒を飲む。(また、聖なる御使いたちと小羊との前で、火と硫黄とで苦しめられる。)」とあります。一貫して、杯の中に入っているものは神の怒りであるということです。つまり、主の恐れた杯とは神の燃える怒りであり、神の正しいさばきであったということです。ちなみに、神は愛であられるが故に、必ず罪をさばかれる正しい神であることを以前の投稿で見ました。

また、キリストは十字架の上で「神にのろわれた者」となられました。ガラテヤ3:13『キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、「木にかけられる者はすべてのろわれたものである」と書いてあるからです。』神にのろわれるとは一体どのような意味があるのでしょうか?

申命記28:15に「もし、あなたが、あなたの神、主の御声に聞き従わず、私が、きょう、命じる主のすべての命令とおきてとを守り行わないなら、次のすべてののろいがあなたに臨み、あなたはのろわれる。」と警告があり、15節から68節までのろいについて詳しく説明がされています。また、申命記31:17に「その日、わたしの怒りはこの民に対して燃え上がり、わたしも彼らを捨て、わたしの顔を彼らから隠す。」とあります。つまり、神に対して罪を犯した者は、神にのろわれ、神の怒りの対象となり、恵みの御顔を隠されるということです。民数記6章にある『主があなたを祝福し、あなたを守られますように。主が御顔をあなたに照らし、あなたを恵まれますように。主が御顔をあなたに向け、あなたに平安を与えられますように。』と言う事と正反対の事が、神の戒めを破る者に起こるのです。

主が十字架の上で神にのろわれた者となった時、神は恵みの御顔を背けられたのです。私たちの罪を背負った主は、義なる神の怒りと憎しみの対象となったということです。しかも、一個人の罪ではなく、創造の始めアダムから世の終わりまで、イエスを信じる全ての人達の罪を背負ったのです。言わば、罪が主の上一点に凝縮され、今までかつていなかった程の忌むべき者として神に見られ、さばかれたと言う事です。このことから、御子が苦しむのを見た御父が悲しまれたのではないということが分かります。イザヤ書53:10で「しかし、彼を砕いて、痛めることは主のみこころであった。」とあります。ここの「みこころであった」という言葉(ḥā·p̄ēṣʹ )は「楽しむ」や「喜ぶ」と言った意味が含まれています。神の御臨在を示す暗黒が全地を覆った12時から3時までの間、神の怒りが主の上に留まり、主は正しい神のさばきを一身に受けられ耐え忍ばれました。そして苦しみの中、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ(「わが神 、わが神 。どうしてわたしをお見捨てになったのですか)」と叫ばれました。そして、私たちの罪のための身代わりとして神の怒りの杯を飲み干され、救いの業を成し遂げられ「完了した。」と言われました。また、その後、「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」と父に全く信頼をして、ご自身のいのちをお捨てになられました。

ところで、御子が背負ったその罪は、世界の創造の初めから御父がキリストにあって選んだ者たちのためでした。杯の中に溢れる神の怒りはしっかりと計られ、それ以上でもなく、それ以下でもなかったのです。何故なら神は、正しい量りを使われる正しい神だからです。そして、罪人に対するキリストの死は、不特定多数に対してではなく、限定的であったことが、ここからも伺えます。これは、限定的贖罪と言われるものです。キリストは一人一人全ての人達の救いをただ可能にしたのではなく、神が主権的に選ばれた特定の人達の救いを確実なものとしたということです。神が選ばれた者の為にキリストが死なれたので、彼らは必ず救われるのです。その一方で、ある人達は「主は一人一人全ての人の罪の為に死なれた」と言われます。しかし、私達が罪を悔い改め、信じることがなければ、滅びて神の怒りを受けます。その場合、神は2度罪に対する支払いを要求する事になるますよね。これは、正しい神のなさることではありません。また、人の決断が救いを最終的に確実なものとするとならば、誰一人として救われず、キリストの死が無駄になった可能性があるという教えになってしまいます。聖書の神は「望むところをことごとく行われる(詩篇135:6)」主権者なる方で、イザヤ書46:10では「わたしは、終わりの事を初めから告げ、まだなされていない事を昔から告げ、『わたしのはかりごとは成就し、わたしの望む事をすべて成し遂げる』と言う。」ともあります。

もし、「十字架のイエスが苦しまれるのを 耐えられ涙を流された神」と御父の視点からの日本語訳の歌詞にあるように、神のあわれみ深さと御子を愛する愛の故に、御父が御顔を背けたと言うのであれば、主は私たちの身代わりとなって神ののろいを受けたことにならないのではないでしょうか。そして、ガラテヤ3:16の教えるように、イエスは「私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出」すことができなかったのではないでしょうか。

その視点から考えると、以下の中国語から日本語に訳されたものが、聖書のことばに忠実ではないでしょうか。また、英語の歌詞からもこのように訳すことは可能だと思います。これは、工藤篤子ワーシップ・ミニストリーズから引用させて頂きました。

父なる神の深き愛
父の愛は海淵より深い
その広さは計り知れない
愛するひとり子をお与えになったほどに
罪人の私を憐れみ御恵みを施す
御子は心を引き裂き 激しく嘆き叫ぶ
天の父は聞かず 応じず 顔を背ける
子羊は血を流し そのいのちを捨てて
人々を御国にお導きになる

この訳の違いは、個人の自由と幸せにフォーカスを置いた日米のクリスチャンと、迫害下にある中国のクリスチャンの信仰の違いから来ているのかも知れません。”How great the pain of searing loss”の箇所を「御子は心を引き裂き 激しく嘆き叫ぶ」とあり御子の視点から書かれています。

しかし、何故でしょうか?それは、御子が最愛なる父なる神との親しい交わりを失い、逆に神の燃える怒りの対象となられたからではないでしょうか?神は自存自在の方です。御父、御子、聖霊なる三位一体の神の間で、他に何も必要としない喜びがあり愛があり平和がありました。御子は、御父に愛され、御父のふところにおられ、御父との交わりを永遠に喜ばれていました。しかし、御子が十字架の上で、主を信じる私たちの罪を背負った時に、その交わりが完全に途絶えてしまったのです。御父に顔を背けられた御子は「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」と絶望の中、問いかけています。主が持たれていた御父との親しい交わりが途絶え、「わが父」ではなく、「わが神」と呼ばれたのです。注目したいのは、御父に顔を背けられたその時でさえ、主は「わが神、わが神」と2度呼ばれています。聖書の中で2度名前を繰り返し呼ぶ事は、悲しみや失望を含みつつ愛する人を呼ぶときに使われます(2サムエル18:33、ルカ10:41)。主も十字架の上で御父に見捨てられ、神の怒りを受け苦しみの中、ご自分の愛する父を呼ばれたのです。それは、あたかも、「今はあなたの前で虫けらのように忌み嫌われる存在として見なされ、父と呼ぶことさえできませんが、そのような中でもわたしはあなたを愛しています」と言われているかのようです。十字架の上でも主は御父を愛し続け、罪を犯されなかったのです。これ以上の苦しみと損失はこの世界に他に有るでしょうか?これ程までの犠牲を払って私達を救い出して下さったその愛は何と大きいのでしょうか!

このように、「十字架の上で苦しむ御子を見るに耐えかね顔を背けた父なる神」と「十字架の上で私たちの罪を背負って身代わりとして神にのろわれた者となったイエスに御顔を背けた父なる神」では、賛美の意味も大きく変わってきてしまいます。賛美を作曲した方の意図はわかりませんが、いつも賛美している曲の内容が聖書の真理を正しく反映しているかはとても大切ですよね。少しの理解の仕方の違いで、福音の理解に大きな影響を与えることを少し見ることができたと思います。キリストが私たちの為に神にのろわれた者となっていなかったのなら、私たちの贖い主として身代わりとして死んでくださることができなかったというわけです。神がご自分の愛する御子さえも惜しまず十字架の上でさばかれたのであれば、生まれながらにして罪の内にあり、神に敵対する私たちを、しかも、御子の死を無視するならば神は決して見過ごされないでしょう。詩篇2篇に「御子に口づけせよ。主が怒り、おまえたちが道で滅びないために。怒りは、いまにも燃えようとしている。」とあります。御子の前にへりくだり、信じることなければ、御子が血の混じった汗を流す程恐れた、神の怒りの杯を自分で飲みほさなければならないのです。罪人でのろわれるべき私たちを救い出すために、キリストは今もなお、その御手を伸ばして下さっているのです。今が恵みの時、今は救いの日なのです。

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参考資料

  • The Cross, Dust to Glory study series from Ligonier Ministry
  • Paul Washer’s sermon “Jesus took our place” from Heartcry Missionary Society
  • Swanson, James A. Dictionary of Biblical Languages with Semantic Domains: Hebrew (Old Testament)
  • The MacArthur Study Bible
  • The Reformation Study Bible

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