完全なる生涯

完全なる生涯205:私は漁に行く

「私は漁に行く」とペテロの一言。何故、「私は食料を買いに行く」などではなく、この言葉なのか?ペテロの意図したことは一体何かと、今回はその疑問に目を向けつつ、四つの福音書を一つにして「完全なる生涯205:私は漁に行く」を見ていきます。

四つの福音書をまとめて、イエス・キリストの「完全なる生涯」として一つのストーリーに。福音書に記されている全ての言葉をまとめて、一つの福音書にしました。毎回、聖書全体の意味を分かりやすくする為に、MacArthurスタディバイブルからの注解を日本語にして説明を加えています。前回「不信のトマス」からの続きです。良ければ、シェアをして下さいね。


ヨハネによる福音書21章1-14節

この後(*1)、イエスはテベリヤの湖畔(*2)で、もう一度ご自分を弟子たちに現わされた。その現わされた次第はこうであった。シモン・ペテロ、デドモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナのナタナエル、ゼベダイの子たち、ほかにふたりの弟子がいっしょにいた。

シモン・ペテロが彼らに言った。「私は漁に行く。(*3)」彼らは言った。「私たちもいっしょに行きましょう。」彼らは出かけて、小舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。夜が明けそめたとき、イエスは岸べに立たれた。けれども弟子たちには、それがイエスであることがわからなかった。

イエスは彼らに言われた。「子どもたちよ。食べる物がありませんね。」彼らは答えた。「はい。ありません。」イエスは彼らに言われた。「舟の右側に網をおろしなさい。そうすれば、とれます。」そこで、彼らは網をおろした。すると、おびただしい魚のために、網を引き上げることができなかった。そこで、イエスの愛されたあの弟子がペテロに言った。「主です。」すると、シモン・ペテロは、主であると聞いて、裸だったので、上着をまとって、湖に飛び込んだ。しかし、ほかの弟子たちは、魚の満ちたその網を引いて、小舟でやって来た。陸地から遠くなく、百メートル足らずの距離だったからである。

こうして彼らが陸地に上がったとき、そこに炭火とその上に載せた魚と、パン(*4)があるのを見た。イエスは彼らに言われた。「あなたがたの今とった魚を幾匹か持って来なさい。」シモン・ペテロは舟に上がって、網を陸地に引き上げた。それは百五十三匹の大きな魚(*5)でいっぱいであった。それほど多かったけれども、網は破れなかった。

イエスは彼らに言われた。「さあ来て、朝の食事をしなさい。」弟子たちは主であることを知っていたので、だれも「あなたはどなたですか。」とあえて尋ねる者はいなかった。イエスは来て、パンを取り、彼らにお与えになった。また、魚も同じようにされた。イエスが、死人の中からよみがえってから、弟子たちにご自分を現わされたのは、すでにこれで三度目(*6)である。


*注

  1. ヨハネの福音書21章1-25節は、福音書のエピローグとなるところです。20章30-31節は福音書自体の結論となるところですが、このエピローグの箇所で、1章1-18節のプロローグとのバランスをとっているのです。このエピローグでは、20章で答えられなかった5つの事柄を締めくくるものなのです。一つ目が、「イエスはもはやご自分の者の必要を満たされないのか (20:17)」?この質問は21章1-14節で答えられます。二つ目に、「ペテロに何が起こったのか?」ペテロは3度イエスを知らないと否定して、逃げました。最後にペテロが出て来たのは20章6-8節で、ヨハネと2人で空の墓を見るが、ヨハネだけが信じました(20:8)。この答えは21章15-17節で答えられます。3つ目が、「主人を持たないこの弟子達の未来は一体どうなるのでしょうか?」という質問で、これは18-19節で答えられます。4つ目が、「ヨハネが死なないと噂がたっていましたが、果たして、彼は死ぬのでしょうか?」という質問で、これは20-23節で答えられます。そして最後に、「何故ヨハネはイエスが行った他の業を書き記さなかったのか」ですが、この答えが24-25節で答えられます。
  2. ガリラヤ湖の別名で、ヨハネの福音書でのみ使われています。
  3. ガリラヤに先に行って主を待つように命じられた弟子達は(マタイ28:16)、主を待っている間に、主を置いて逃げ去った自分たちの使徒としての不的確さを痛感したのかも知れません。ペテロをはじめ、全ての弟子がいのちを捨ててでも主について行くと豪語しました。ここで、「私は漁に行く」と言ったペテロですが、ギリシャ語では定冠詞が使われている為に、特定の舟を指していることが伺えます。すなわち、ペテロは、使徒としてではなく、自分の昔の生き方に戻ると決断したのでしょう。また、ここから、上記の2つ目の答えにつながるのです。
  4. 明らかに、主ご自身が多くの群衆に食べさせる食物を創ったように、ここでも朝食を創り出さられたのです。
  5. 魚の数が正確に記録されていることからも、ヨハネ自身がこれらの出来事を目撃して、この福音書を書き記したことを強調しているのです(1ヨハネ 1:1-4)。ここからも、イエスは弟子達の必要をまだ満たして下さることが分かるのです(ピリピ 4:19、マタイ6:25-33)。
  6. この3度目とは、ヨハネの福音書で記録されている復活後のイエスの出現を指しています。1度目が20章19-23節、2度目が20章26-29節です。

もし、少しでも祝福となりましたなら、是非ともシェアして下さいね。

次回は、「わたしを愛しますか」です。

参考資料

  • John MacArthur. Jesus Appears to the Disciples While Fishing, One Perfect Life. P483
  • 新改訳聖書 (1965年版)

カナダのビクトリアにある、ビクトリア日系人教会で初めて聖書を。その後、聖書の教えるイエス・キリストの福音を知り、現在はビクトリアのダウンタウン近くにあるBeacon Churchへ導かれました。私たちは、4人の子宝に恵まれた日本人のクリスチャン家族です。ビクトリアに住む日本人/日系人の為の教会案内にも目を通して下さいね。


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