神学

奴隷5:キリストに買い取られた者

キリストを信じて従うということは、自らがキリストの奴隷となるということです。このギリシャ語で奴隷の意味であるduolosという言葉は、キリストとクリスチャンの関係を表現する時に最も頻繁に使われる言葉です。残念ながら、日本語や英語の聖書では、「しもべ」と誤訳されていることを見てきました。前回の奴隷と主人と福音のおろかさから、奴隷の対義語である主人という言葉にフォーカスを置いた後、これらの言葉の理解がどの様に今の時代の福音宣教に影響を与えて来たかを見ました。今回からは、この主人と奴隷の関係を学ぶ事によって、キリストと私たちの関係について、この上もない祝福となる、クリスチャンの特徴である5つの真理を、聖書から見て行きます。

キリストの奴隷duolosであることの素晴らしさ

広辞苑で奴隷の定義を調べました。「人間としての権利自由を認められず、他人の支配の下にさまざまな労務に服し、かつ売買譲渡の目的とされる人。」とありました。英語の辞書でも同じです。そして、この意味は、聖書の書かれた当時も同じです。

新約聖書の書かれた当時の奴隷制度について学ぶ事によって、聖書でいう奴隷とはどういうものなのかが理解できます。奴隷売買について、少し見てみましょう。奴隷を購入するには、まず奴隷市場にいきます。そこで、これだと思う奴隷を選び、そのお金を払って、自分の所有としたわけです。そして、主人は、この奴隷に、従うべき命令をあたえ、必要とあらば、戒めや懲らしめを与えます。主人は奴隷の日々の必要をみたし、その働きに応じて褒美と罰をあたえます。この当時の主人と奴隷の関係を学ぶ事によって、キリストと私たちの関係について、5つの事を学ぶことができます。今回はその一つ目にフォーカスを置きます。

1. 奴隷は主人に買い取られた者

しもべは、賃金をもらって働く人たちです。しもべは、自分の意思で主人を変えることもできたし、やめる事もできました。しかし、奴隷は自分の意思で主人を選ぶのではなく、逆に主人が自分の意思で奴隷を選ぶのです。そして奴隷になるとは、主人に買い取られて、主人の所有物となるということです。これはまさに、神とクリスチャンとの関係を表しているのではないでしょうか。キリストは何をもって、ご自分の者を買い取られたのでしょうか?それは、1ペテロ1:18-19で「ご承知のように、あなたがたが先祖から伝わったむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、傷もなく汚れもない子羊のようなキリストの、尊い血によったのです。」とあります。

もしかしたら、クリスチャンで無い方は、「私は自由だし、神の奴隷になんてなりたくない」と思われるかもしれません。しかし事実は、私たち生れながらの全ての人間は、罪の奴隷であると書かれています。どんなに頑張っても、神の目に悪しか行なえず、正しい事を行う自由の無い者です。そして、罪の奴隷である事は、死と滅びという報酬を最後に与えられてしまうのです。つまり、罪の奴隷の行き着く所は地獄であるということです。しかしキリストは、その御自身の尊い血によって、そのような私たちを贖って、つまり買い取ってくださり、滅びから救い出し、永遠のいのちを与えてくださいました。注意して頂きたいのは、ナルニア国物語でアスランがエドマンドの為に身代わりとなって死んで、魔女に支払いをしたという様に、キリストがご自分のいのちをもって、サタンに身代金を払ったのではありません。キリストが勝利者であって、サタンではありません。私達の負い目(借金)は、悪魔に対してではなく、聖であり正義であられる神に対してなのです。キリストの身代わりの死は、神の正義を満たす為であり、罪を犯した者は死ななければいけないという神ご自身が要求した正義であるということを忘れることはできません。

私たちはそのキリストの奴隷であるという事です。私たちは、もはや自分自身のものでありません。このことは、聖書を一貫して教えられているメッセージです。たとえば、ローマ6:17-18「神に感謝すべきことは、あなたがたは、もとは罪の奴隷でしたが、伝えられた教えの基準に心から服従し、罪から解放されて、義の奴隷となったのです。」また、使途20:28にも、神がご自身の血をもって買い取られた神の教会とあります。そして、1コリント6:19-20には、「あなたがたのからだは、あなたがたの内に住まわれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい。」とあります。

そして、主人は一人だけです。マタイ6:24に「だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。」この箇所を文字通りに訳すと、「二人の主人の奴隷となる」事はできないという事です。奴隷は一人の主人の所有物となり、一人の主人にしか仕えることができなかったのです。旧約聖書を見てもそれは明らかです。レビ記25章にはこうあります。39-40節「もし、あなたのもとにいるあなたの兄弟が貧しくなり、あなたに身売りしても、彼を奴隷として仕えさせてはならない。あなたのもとで住み込みの雇い人としておらせ、ヨベルの年まであなたのもとで仕えるようにしなさい。」何故、ユダヤ人は自分の民を奴隷にすることができなかったのでしょうか?それは、42節にこうあります。「彼らは、わたしがエジプトの地から連れ出した、わたしの奴隷だからである。彼らは奴隷の身分として売られてはならない。」55節「わたしにとって、イスラエル人はしもべだからである。彼らは、わたしがエジプトの地から連れ出したわたしのしもべである。わたしはあなたがたの神、主である。」つまり、ユダヤ人は神に贖い出された、つまり神に買い取られた神の奴隷であるために、ユダヤ人は別のユダヤ人を奴隷として買うことができなかったのです。面白いことに、全く意味の異なるこの「奴隷」と「しもべ」は、どちらも同じʿě·ḇěḏというヘブル語から訳されているのです。「しもべ」という意味のヘブル語が無いのでしょうか?その様なことはありません。しもべ、つまり「雇われて働く人」という意味のśā·ḵîrは「住み込みの雇い人」と、ここでしっかりと訳されています。ここからも、旧・新約聖書、一貫して、神の民は神によって贖い出された奴隷であるので主人は神ただ1人であることが分かりますね。もし、神とこの世に仕えているのであれば、その者は主の買い取られた奴隷ではないと言うことです。今、福音が語られる時、未信者にキリストを救い主として受け入れ、後から主として受け入れなさいと言う方がいらっしゃります。しかし、今回見たことからも、世に仕えキリストを主としないクリスチャンはいないのです。

クリスチャンは主の奴隷であると言う事を読んで、ネガティブに受け取られるでしょうか?逆に喜びを見出すのではないでしょうか?罪を犯して神に逆らい、神の敵として歩んできた私達を救い出す為に支払われた代価はキリストご自身であったのです。これ以上に価値のある方はおられません。これ以上の犠牲はありません。これ程の愛を示してくださった神に、私達はどの様に応対すればよいのでしょうか?感謝のうちに主の奴隷として喜んで従って行くことではないでしょうか?

今回は、クリスチャンの特徴の一つ目として、神の奴隷である理由を見て、その素晴らしさに触れたと思います。次回は、「主が求められることと、義認と聖化と律法主義」から、クリスチャンの役割を見ていきます。もし良ければシェアをして下さると嬉しいです。


参考資料

  • John MacArthur. Slave.

完全なる生涯」と題して、イエス・キリストの、人としての地上での歩みを、1つの福音書としてまとめるシリーズを始めました。また、「みことばの糧」と題して、聖句の簡単な説明と共に、みことばの糧をビクトリアからお届けします。「みことばの意味がみことばである」をモットーに、聖書は神の誤りなきことばという見解に立つMacArthurスタディバイブルやESVスタディバイブルやReformationスタディバイブルなどの注釈を日本語訳にしています。日本語と英語で、Logos bible appsのイラストと一緒に味わって下さいね。


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