ビクトリア日系人教会のクチコミとレビュー

このカナダのビクトリアにある、唯一のプロテスタントの教会、ビクトリア日系人教会(Victoria Japanese Church)。この教会で洗礼を受け、結婚式も執り行って頂き、会長と会計の役員を3期務めさせて頂き、10年以上通いました。その視点と経験を合わせて、聖書を基準としてのレビューです。

教会の雰囲気

どこの教会へ行かれた方も経験があると思いますが、この教会に集われる方々は皆さんとても親切です。遠く日本を離れたカナダのビクトリアの地で、日本語を話せるソーシャルグループがあり、安全な所ですので、カナダに来られて初めての方にはとても心強いと思います。その社会的な面から見た意味での教会としては良いところでしょう。また、日本ならではの「和」を大切にしている教会で、個人の意見や考えを尊重して「御霊の一致」として信徒の間での一致を求める所でした。しかし、その一致は後で説明をしますが、聖書の教えをあまり考慮してはいなかったようです。

賛美

ビクトリア日系人教会では、新聖歌などから、皆さんが教会でよく聴いた事のある「驚くばかりの」などの賛美をよくされました。約4年ほど過ぎた今でも、教会で日本語で賛美した曲を口ずさむことがあります。選曲も素晴らしく、歌詞を通して神様を褒め称えるだけでなく、聖書で教える教義を学ぶ時にもなります。ただ、聖歌隊という賛美チームがありましたが、伝道の為という名目で、未信者の方にも参加を勧めることがよくありました。2コリント6章では、「不信者と、つり合わぬくびきをいっしょにつけてはいけません。…信者と不信者とに、何のかかわりがあるでしょう。」という命令がされています。つまり、礼拝においても、不信者の方と共になって、神様に礼拝を捧げることは出来ないのです。信徒が神の御前に立つことができるのは、ただイエス・キリストの十字架の上での身代わりの死があり、恵みの故に信仰によって神の前に義と認められているからです。

サンデースクール

子どもたちに対して聖書のみことばが分かりやすく教えられる場という意味での子供向けと思われますが、このサンデースクールでは、色塗りや、聖書物語を読むなどの活動をして、礼拝中に、親が心配する事なく子供達を預かって下さるところです。クリスチャンでないボランティアが担当をして下さったりと、子供達にイエス様や聖書のことを教える為よりも、どちらかと言えば、その目的は、子供たちが声を出したり騒いだりと礼拝の差し支えになるのを防ぐの為のようでした。サンデースクールを小さい時から来ていた子供達は、福音について学ぶ事なく大きくなり、現時点では、悲しい事に(一家族の子供を除いて)教会離れしているようです。ちなみに、旧・新約どちらの聖書にも、礼拝は家族単位でされていて、子供を親と離して礼拝中に別の所に置くという概念は有りません(エズラ8章など)。

献金

当然ながら、信者でない方などは献金をする必要はないとホームページのQ&Aにありました。しかし、教会が財政難の時、教会員で集まって検討した時がありました。その時の一部の役員の方の意見としては、伝道をして教会に来る人を増やさなければいけないという事でした。イエス・キリストの福音を述べ伝える目的が、教会財政の為に使われるのは、教会に来られている方々が、大宣教命令の意味と聖書の教える福音の素晴らしさを理解していない事から来ているのかも知れません。

聖書理解と神学的立場

神学的に見てみると、エキュメニカルであり、リベラルな立場を取る教会です。この教会を「祈祷会」の祈りのグループから始められた方の意向として「カトリックの信者の方も一緒に来て、日本語で礼拝を持てる教会をも望む」と言ったコメントを以前に頂きました。また、女性牧師を招聘することも審議にかけられ、会衆性をとるビクトリア日系人教会は、最終的に教会内での投票にまで至りました。また、マタイ9章17節を誤った解釈をして、「新しい神学『新しい皮袋』の創造が大切」を理念に掲げるリベラルなJTJ(Jesus To Japan)宣教神学校を、現主任牧師は卒業されています。(新しい皮袋に関する聖書からの説明はこちらです。)その為に、ホームページ内での「私達が信じること」とプロテスタントの一般的な信仰信条を掲げ、ビクトリアで唯一のプロテスタントの教会とはありますが、「聖書のみと神の栄光のみ」などの宗教改革で始まったプロテスタントの教えからは離れています。

福音

その結果として、人間中心の福音をwebsiteでも紹介されています。これは、ビクトリア日系人教会の牧師紹介のページからの抜粋ですが(以下に全文記載)、「私達は神様から見てダイヤモンドのように価値があり、かけがえのない存在です。」とあります。しかし、ローマ書3章であるように、「義人はいない。ひとりもいない。…すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者(神の前に無価値で役に立たないということ)となった」という人の性質について、また人は自分の犯した罪の為に正しい神の裁きを受けるべき存在であるという事を一切省いて記載されていました。なぜ、キリストが私たちを罪の奴隷の状態から救い出す為に死なれなければいけなかったのか、また誰がその死を要求したのか、などの記載も、もちろんありませんでした。この事がはっきりと理解されなければ、イエス・キリストの十字架上で死んで下さった神の愛が理解できないのでないしょうか(ルカ7章47節)?

伝道

伝道に関してですが、福音を語るよりも、行動を通して伝道をすることを心掛けておられます。クリスチャンの生き方は、クリスチャンに働く福音の結果であって、福音宣教の代わりにはなりません。また、神の「良い知らせ」であるゴスペルという言葉を使って、「ゴスペルフラ」というものを伝道などの為に取り入れています。ローマ書10章17節に「信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。」とあるように、福音は述べ伝えるものであって、踊って表されるものではありません。結果として、ビクトリア日系人教会は、聖書が語るイエス・キリストの福音を見失ってしまった教会となっているのが現状です。事実、私達は、聖書の教える伝統的なプロテスタントの福音を新来者にシェアをしたために、「新来者を怖がらせるので教会で伝道をしたり、新来者の方を家に招いたりすることを続ければ、教会戒規を受ける事になる」と、教会の「和」を乱す事に警告を受けました。その結果として、使徒5章29節でもあるように、「人に従うより、神に従うべきです」とペテロが言ったように、この教会を離れる決断に至りました。つまり、このビクトリア日系人教会は、聖書の福音を受け入れない教会であるということです。「イエス・キリストの福音」や「福音」に関する投稿を読んで頂ければ、どのような福音を語ったかを明記しているので、ただ根拠のない内容を書いているのではない事が分かって頂けると思います。また、ここに書かれていること自体が聖書に基づいているか、どうかご自分で聖書にあるマタイの福音書やローマ書などを紐解いて読んで見て下さい。

結論

ビクトリア日系人教会は、ビクトリアで唯一のプロテスタントの教会とありますが、宗教改革から始まったプロテスタントの根幹となる「聖書のみや神の栄光のみ」から外れてしまい、聖書の福音を正しく教えてはいません。もちろんカルトなどではありませんが、本来のプロテスタントの教えを維持はしていません。その為に、フォーカスは「神」よりも、「今の人生を豊かに生きる為の人の幸せ」などに置かれています。結論として、異国の地に置ける日本人の集まりとしてのソーシャルな場としてはお勧めですが、聖書を学び、霊的に成長し、イエス・キリストの素晴らしさを仰ぎ見る場として、またみこばに置ける信仰の一致の内に兄弟姉妹の交わりを求める場としては、正直なところお勧めはできません。このような事をレビューで書いたのは、イエス・キリストの福音と神の栄光が、そして人のたましいがかかっている為です。この日系人教会がイエス・キリストの福音と聖書に立ち返る日を心待ちにして、このビクトリアの地で共に唯一まことの主を礼拝できる事をお祈りしています。


以下は、2019年2月の時点での、ビクトリア日系人教会の牧師紹介のページからです。

私の目にはあなたは高価で尊い。私はあなたを愛している。

Because you are precious in my eyes, and honored, and I love you.

イザヤ書434 / Isaiah 43:4

過去、性格、性別、年齢、仕事、学歴そんなことは関係なく神様はストレートにあなたを愛しておられると語られています。私達は神様から見てダイヤモンドのように価値があり、かけがえのない存在です。神様は特別にあなたを愛してくださっています。十字架にかかるほどにご自分の命を惜しみなく、こんな私たちの為に捧げて下さいました。罪の奴隷からの解放のためです。本当の自由をあなたに味わってほしいという神様の切実な思いからです。

親が、友人が、または他人がなんと言ったとしてもあなたは高価で尊いと神様ははっきり言われています。そして、どこまでも愛を注がれています。

私達の教会はすべての方を心から歓迎致します。クリスチャン以外の方でも大歓迎です!教会のドアはすべての人のために開放されています。是非イエス様のご愛に触れ、泉のように湧き出るエネルギーを体験して頂きたいです!

皆様のお越しをお待ちしています。

ビクトリア日系人教会の牧師紹介ページ