神学, 伝道

奴隷4:奴隷と主人と福音のおろかさ

「私達は神様から見てダイヤモンドのように価値があり、かけがえのない存在です。」これは、ビクトリアにあるプロテスタントの教会の福音の紹介文です。主イエス、またパウロなどの使徒たちが、もしこのような福音宣教をしていたら、果たして迫害を受けたり、十字架の上で殺されたりされたでしょうか?そこには、十字架、罪、さばき、神の怒りなどの福音の核に直接つながる理由は2次的なものとして扱われ、ただ神の愛にのみフォーカスが置かれています。このような福音宣教は聖書に忠実なのでしょうか?この福音の理解が生まれた理由の一つとして、今回はその説明を踏まえつつ、この奴隷シリーズを見ていきます。

神学

奴隷2:本来の意味と誤訳の由来

「あれっ??『キリスト・イエスの奴隷であるパウロとテモテから』?私の聖書では「ここは『しもべ』とありますよ!」と言われる方がいらっしゃるかもしれません。果たして、その日本語訳は正しいのでしょうか?前回、「奴隷1:聖書の誤訳と真理の隠蔽?」でdoulos(デゥロス)というギリシャ語の言葉が誤って「しもべ」と訳され、本来の意味である「奴隷」という言葉が、私たちクリスチャンの目から400年以上も隠されていたことをみました。今回は、このdoulosという言葉が持ち得る意味に触れて、本来の意味が「奴隷」であるという根拠と、「しもべ」と訳された由来について見ていきます。