神学, 福音, 恵みの教義

奴隷6:主が求めることと、義認と聖化と律法主義

クリスチャンは、神のそしてキリストの奴隷であるということをこの「奴隷」シリーズで聖書から見てきました。キリストと信徒の関係を表すのに最も頻繁に使われているduolosというギリシャ語は、奴隷という意味の他は何も意味し得ないことばであるにも関わらず、日本語の聖書ではしもべと訳されています。この誤訳の為に、私達が述べ伝える福音の内容が変えられてきたこと、また私達が見逃してしまうキリストの奴隷であることの素晴らしさ:キリストに買い取られた者について触れてきました。今回は、キリストと信徒の関係の2つ目の特徴を見ていきます。そして、沢山の誤解のある、義認、聖化と律法主義について触れていきます。

2. キリストがご自身の奴隷に求められるもの:従順さ

主人が奴隷に求めることは、その唯一の主人に対する奴隷の完全な従順さです。奴隷であるという事は、ただ一人の主人の所有物であるだけでなく、その主人の命令に従順でなければいけないという事です。その奴隷の役目は、たった一つです。それは、主人のために存在し、従うということです。主人の望みを即座に遂行するため、忠実に、無条件に、ためらわずに、不満を言わずに、その命令に従うということです。ローマ・ギリシャ時代の奴隷は、主人のことば以外に従うべき法律を持たず、自分の権利も持たず、ただ主人の所有物であり、その命令に完全に従う必要があったそうです。これも、まさしく、キリストを主とする私たちクリスチャンの持つべき態度ですよね。1ペテロ1:2に「父なる神の予知に従い、御霊の聖めによって、イエスキリストに従うように、またその血の注ぎかけを受けるように選ばれた人々へ。」とあります。私たちが幸せになるために救われたのではなく、キリストに従うように、私たちは、救いの恵みにあずかったわけです。

主人であるキリストに心からの従順さを持って従うということは、本当の信者のしるしでもあります。1ヨハネ2:3「もし、私たちが神の命令を守るなら、それによって、私たちは神を知っていることがわかります。」先ほど読んだように、私たちの役目は、ただ、神の命令に従い、自分のからだをもってその栄光を現すだけです。逆に、キリストを信じると言いながら、不従順な歩み方を続ける人たちは、その行いによってその信仰告白を否定しているわけです。1ヨハネ1:6には「もし私たちが、神と交わりがあると言っていながら、しかもやみの中を歩んでいるなら、私たちは偽りを言っているのであって、真理を行なっていません。」とあります。偽預言者に当てて言われたところですすが、彼らは「滅びの奴隷」(2ペテロ2:19)であり、「私たちの主キリストに仕えないで、自分の欲に仕えている」(ローマ16:19)とあります。ユダ4には、「というのは、ある人々が、ひそかに忍び込んできたからです。彼らは、このようなさばきに合うと昔からまえもってしるされている人々で、不敬虔な者であり、私たちの神の恵みを放縦に変えて、私たちの唯一の支配者であり主であるイエスキリストを否定する人たちです。

義認と聖化

何に従うのだと思われるかもしれません。それは、神が聖書ではっきりと与えられています。その命令を自分勝手に解釈したり、従いたくない命令は無視する事など、奴隷には許されていない事です。それは「律法主義的ではないか!」と言われるかもしれません。でも、従順さ(Obedience)を律法主義とか戒律主義と勘違いすることはできません。誤解してしまう場合に良くみられるのが、義認(Justification)と聖化(Sanctification)の区別をあいまいに理解してしまうことから起こるようです。義認とは、罪人が神の前に罪を悔い改め、十字架につけられ復活されたイエス・キリストを信じる時に、ただ一度だけ起こるイベントです。その時に、神がその人の罪を赦し、その者を神の前で義と認めるということです。ここには人の行い、働きや貢献は一切なく、ただ神のみの恵の御業なのです。ローマ8章からもハッキリと分かるように、一度、神に義と認められた者は、その状態を決して失うことはありません。注意して頂きたいことは、義認において、その人が本質的に正しい者となったのではなく、信じた人があたかもイエス・キリストの様な正さを持っているかのように、神が見てくださるということです。あの改革者が、“Simul Justus et Peccator.”と言った様に、私達は罪人であると同時に義人なのです。これが、プロテスタントの宗教改革で再発見された福音の核となる、義の転嫁です。その一方で、律法主義は、その神の義を得るために、自分で良い行いをすることによって、神から正しいと認められるように努力をすることです。聖書にはハッキリと「律法によって神の前に義と認められる者が、だれもいないということは明らかです」とガラテヤ3章11節にあります。そして、聖化とは、罪の内にあった者を神が救い、取り分けた時から始まり、信徒が生涯を通してキリストに似た者と変えられていくプロセスのことです。これは神の恵みによって、聖霊なる神の働きの中、信徒が努力していくものです。私達がよく陥るもう一つの戒律主義は、イエス・キリストを信じる者は神に従うとあるので、神に従うことによって自分の救いを証明したり確かなものとしようと努力することです。そのことを、あたかも、「御霊で始まったあなたがたが、いま肉によって完成されるというのですか」とパウロがガラテヤ3章3節で戒めているかのようです。私達の良い行いは、私達を愛し、私達の為に罪を背負って死んでくださったイエス・キリストに感謝して、その方を愛するが故に行うのです。今回は触れませんが、私達に、主ご自身の尊い血をもって買い取ってくださった奴隷としてだけではなく、子どもとしても身分も与えてくださったことも忘れることはできません。「愛されている子どもらしく、神にならう者(エペソ5:1)」として歩むのです。その中で、私たちは、ただ愛のうちに主の命令に従うことを要求されているわけです。

クリスチャンは、主であられるキリストの奴隷であることを聖書から学んできました。そして、この最期のパートでは、クリスチャンと主イエスとの関係の五つの特徴をみています。前回に見た一つ目は、クリスチャンはキリストに買い取られた奴隷であり、今回二つ目がその唯一の主人に従順に従うということです。その中で、義認と聖化について、そしてよく勘違いされる戒律主義についても触れました。次回は、「奴隷の目的」から、クリスチャンの望むことを見ていきます。もし良ければシェアをして下さると嬉しいです。


参考資料

  • John MacArthur. Slave.

完全なる生涯」と題して、イエス・キリストの、人としての地上での歩みを、1つの福音書としてまとめるシリーズを始めました。また、「みことばの糧」と題して、聖句の簡単な説明と共に、みことばの糧をビクトリアからお届けします。「みことばの意味がみことばである」をモットーに、聖書は神の誤りなきことばという見解に立つMacArthurスタディバイブルやESVスタディバイブルやReformationスタディバイブルなどの注釈を日本語訳にしています。日本語と英語で、Logos bible appsのイラストと一緒に味わって下さいね。


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