神学

奴隷3:奴隷としもべの大きな違い

「奴隷だって?奴隷もしもべも、主人に仕える人なので同じ意味ですよ!そんな不快な呼び方は、聖書の書かれた当時のクリスチャンにだけ当てはまるのではありませんか?」と言われる方もおられるかもしれません。前回、「奴隷2:本来の意味と誤訳の由来」でdoulosというギリシャ語の言葉が、奴隷という意味しか持ち得ないこと、また、この言葉が聖書の中で誤訳された由来について見ました。今回は、奴隷としもべの意味の違いについて触れてから、その奴隷の身分は当時のクリスチャンにだけ当てはまるのかを見て行きます。

3.「奴隷」と「しもべ」の違い

「奴隷と訳されていないからといって、どのような違いがあるのだ?」とか、また「私たちと神の関係にどう影響を与えるのだ?」と思われるかもしれません。役割に関して言えば、奴隷もしもべも、かぶっている部分があのは確かです。ある意味、類義語と言えますが、同義語ではありません。関係においては全く違います。奴隷としもべとは全く違います。しもべは賃金で雇われます。しもべは解雇されたり、自分の意思で違う人のもとで働くこともできます。しかし、奴隷は主人の所有物であり、それはずっと続く、自分からは辞めることのできない永続的な関係です。奴隷が自分の意思で、今日から別の人の所の奴隷になろうと言う事はできませんよね。私たちは、神の、そしてキリストの奴隷です。この主人と奴隷という、神と信徒の関係を理解する事は、救いについて理解するのに不可欠な教えです。言い換えれば、このキリストの奴隷であるという事を理解する事なしに、神の素晴らしい救いの業や、私たちの生きる目的をはっきりと理解する事はできません。この事をこれからのシリーズで詳しく見て行きたいと思います。聖書ではハッキリと教えられている真理にも関わらず、僕自身がそうであったように、これは多くの方にとって全く新しい教えと感じられるかも知れません。

4. クリスチャンが奴隷である事は過去、現在、未来と変わらない事実

クリスチャンはキリストの奴隷であるという事は、聖書が書かれた当時のクリスチャンにだけ当てはまるもので、今の時代には関係がないのでしょうか。そのような事はありません。聖書では、神と人との関係が主人と奴隷であるということで一貫しています。神の奴隷であるという概念は旧約聖書の時代からあります。ギリシャ語doulosのへブル語の同意語はebedです。旧約聖書では、その言葉を約1100回ほど使っています。あの偉大なダビデ王も2サムエル7章で何度も自分を神の奴隷といっています。しかし、その多くはもちろん「しもべ」と訳されています。預言者を含め、ユダヤ人は自分たちが神の奴隷であると理解していました。レビ25:42にも、「彼らは、わたしがエジプトの地から連れ出した、わたしの奴隷だからである。彼らは奴隷の身分として売られてはならない。」と奴隷という言葉をまだ残しています。皆さんの大好きな箇所、ヨシュア 24:25でも、「私と私の家とは主に仕えるとあります。」ここでも、主の奴隷となる(abad)という言葉が使われているのです。

では、新約聖書をみてみましょう。、パウロは、ローマ 1:1でキリスト・イエスの奴隷として、テトス 1:1で神の奴隷と自分を指しています。ピリピでは、テモテもパウロも奴隷とあります。ぺテロもその手紙で、イエス・キリストの奴隷であるとで自分を呼んでいます。イエスの義理の兄弟であるヤコブもユダも、自分をキリストの義兄弟とは言わずに、神と主イエス・キリストの奴隷と名乗っています。ヨハネも黙示録で、自分を含めて、クリスチャンたちを「イエス・キリストの黙示。これは、すぐに起こるはずの事をその奴隷たちに示すため、神がキリストにお与えになったものである。そしてキリストは、その御使いを遣わせて、これを奴隷ヨハネにお告げになった。」とあります。

そして、黙示録 7:3をみると「私たちが神の奴隷たちの額に印を押してしまうまで、地にも海にも木にも害を与えてはいけない。」とあります。聖書では、将来の世の終わりの大艱難の時に神様は14万4千人のユダヤ人を用いて、福音を宣べ伝えさせるとあります。彼らも神の奴隷と呼ばれています。つまり、将来も、キリストにあるものは、奴隷と呼ばれます。そして、聖書の最後の章では、「もはや、のろわれるものは何もない。神と子羊との御座が都の中にあって、その奴隷たちは神に仕え、神の御顔を仰ぎ見る。また、彼らの額には神の名がついている。」とあります。奴隷には主人の名前が刻まれますが、ここでも、神の民の額には神の名前がついているとあります。つまり、神ご自身が私たちの所有者であり主人であるのです。ですから、私たちは、天国でも、奴隷と呼ばれるわけです。

過去においても奴隷であり、現在においても奴隷であり、未来においても、永遠に神の奴隷というわけです。クリスチャンがキリストの奴隷であるという表現は、聖書の中だけに限られず、最も頻繁に使われました。もちろん、ただペテロやパウロなどの使徒たちにだけとか、牧師にだけ当てはまるものではありません。これは時代に関係なく、神と私たち全ての信者の関係を一番よく表す真理なのです。

今回は、奴隷としもべの意味の違いについて触れて、その奴隷の身分は過去、現在、未来の全ての神の民、またクリスチャンに当てはまるということを見ました。次回は、「奴隷と主人と福音のおろかさ」と題して、奴隷の対義語となる「主人」について見ます。また、奴隷と主人の関係の理解の欠如の為に、今よく語られる福音のメッセージが、聖書の教えから離れていることについて見て行きたいと思います。もし、良ければシェアしてくださると嬉しいです。


コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Google フォト

Google アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

%s と連携中

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください